30人いる!

70 名前:30人いる! その82 sage 投稿日:2007/09/09(日) 20:40:07 ID:???
第7章 笹原恵子の周囲

その後、その他の細かいスタッフの担当を決めて、3回目(?)の制作会議は閉会した。
現時点で決まったスタッフとキャストは、次の通りであった。
スタッフ
制作総指揮    荻上(まあ一応責任者ということで)
プロデューサー  台場
脚本       伊藤
助監督(チーフ) 伊藤
撮影       浅田・岸野
ロケハン     浅田・岸野
編集       浅田・岸野
光学合成(?)  台場
照明       豪田
録音       巴・沢田
美術       豪田
記録       神田
スケジュール管理 神田
着ぐるみ造形   国松・日垣
衣装       国松・日垣 
小道具      日垣
擬闘       朽木・国松
特殊技術     国松
総監督      笹原恵子



71 名前:30人いる! その83 sage 投稿日:2007/09/09(日) 20:43:08 ID:???
キャスト 
冬樹       有吉
夏美       巴
モア       アンジェラ
ケロロ      荻上
タママ      ニャー子
ギロロ      国松
クルル      スー
ドロロ      沢田
ベム1号      朽木
アル1号      日垣

クランクインは、シナリオ以外にもいろいろと準備にかかる時間を考慮して、1週間から10日ぐらい後ということに決まった。
浅田と岸野は神田と共に、神田宅に行く為に引き上げた。
神田宅の内装が日向家に似てることを思い出し、改めてロケに使えるか見に行こうというのだ。
(2人は夏コミの際に、神田作のコピー本を運ぶのを手伝ったので、家の中にも入っている)
伊藤はシナリオを仕上げる為に、台場はさらなるスポンサー集めの為に、そして豪田はセット制作準備の為に引き上げた。
結果残ったのは、監督の恵子と、スーツアクターを含む役者担当の会員たちだけとなった。
恵子は再び「ケロロ軍曹」のビデオを見始めた。



72 名前:30人いる! その84 sage 投稿日:2007/09/09(日) 20:46:06 ID:???
巴「ねえ、せっかく仮にも映画に出るんだし、クランクインには間があるんだから、それまで特訓しない?」
一同「特訓?」
最初にこの話に食い付いたのは国松だった。
「いいわねそれ、やりましょう!」
荻上「あの国松さん、最初に断っておくけど、特訓と言ってもジープとかは無しね」
国松「(笑顔)嫌だなあ会長、分かってますよそんなの。いくら私でも、学祭の映画の特訓でジープで追い回すようなことやりませんよ。(横向いて小声で)チッ」
一同『やる気だったのかよ…(冷汗)』
巴「特訓と言っても、まあちょっとした『ガラスの仮面』気分で、発声練習とか、腹筋とか、そういうのですよ。どうです荻様?」
荻上「まあそれぐらいならいいわね」
日垣「先ずはやっぱランニングですかね?」
国松「非体育会系の人が多いから、ジョギング程度でいいでしょ。その代わりしっかり声出して、発声練習兼用で」
朽木「そりゃいいですなあ。ついでに着ぐるみ班はみんな厚着して、着ぐるみ対策も兼ねれば一石二鳥ですにょー」
一同『それはチトハズいな…』
巴「あとはヒンズースクワットと」
有吉「プロレスラーじゃないんだから、それはちょっと…」
巴「何言ってるの、スクワットは演技の基本よ。森光子さんが80過ぎても元気に舞台に立てるのは、毎日スクワット150回やってるからよ」
一同「そうなの?」
ちなみに厳密には、森さんがやってるのはスクワットまで行かない軽い屈伸運動らしい。
まあそれでも、毎日150回出来る元気さは驚愕に値するが。



73 名前:30人いる! その85 sage 投稿日:2007/09/09(日) 20:48:48 ID:???
そこで突然、国松ルームに乱入者があった。
大野さんだ。
後ろにはスタンドのように、田中が付いて来ている。
荻上「大野さん、どしたんすか?」
大野「話は聞きましたよ。こんな面白そうな話、何で私にも声かけてくれないんですか?」
田中「すまん、止めたんだけど」
荻上「つまり大野さんも映画に出たいと?」
大野「(体をくねらせ)お願い、会長さ〜ん」
荻上「いや私はこの件については一スーツアクターですから。それに監督恵子さんだし」
大野「(体をくねらせ)お願い、監督さ〜ん」
恵子「(ビデオを止め)と言ってもなあ、もう配役は決まっちゃったし…」
大野「そこを何とか〜」
田中「だからよしなさいって」
恵子「うーん、大野さんで今からでもやれそうな役と言えば…」
朽木「そりゃもちろん、あれしかないでしょ?」
巴「やっぱ、あれですかね?」
国松「あっ、分かった、あれですね」
沢田「分かりません」
荻上「ほらあの人よ。長い黒髪で、巨乳で、眼鏡で…」
沢田「あっ、なるほど!」
朽木「そんじゃあせーので言うにょー、せーの!」
一同「秋ママ!」
一瞬間を置いて、大野さんがキレた。
「誰が推定年齢30代半ばの2人の子持ちか〜〜〜!!!」



74 名前:30人いる! その86 sage 投稿日:2007/09/09(日) 20:52:55 ID:???
実は今回の映画では、最低でも6年後の話なので推定40歳前後になるが、誰もそのことには触れなかった。
荻上「しょうがないじゃねっすか。他に適当な役無いし」
国松「あのう、それに秋ママさんだったら素敵だと思いますよ。見た目若いし、美人だし」
大野「そ、そう?(まんざらでもないなという微笑み)」
朽木「そうですにょー。わたくし秋ママさんだったら、ぜひ1度お願いしたいですにょー」
大野「何を?」
朽木「えーと、関節技とか…」
荻上「(しばし沈黙して考え込み)かろうじてセーフ」
そんなやり取りを無視して、恵子は携帯をかけていた。
「あっ伊藤、シナリオの話だけどな…何、もうあらかた書けてる?」
国松「伊藤君、仕事速いね」
有吉「多分先に殆ど書いてたと思うよ、シナリオ。彼、あれで意外と自信家だから」
恵子「そんじゃあさあ、前か後ろでいいから、秋ママの出る場面追加しろや…しゃあねえじゃん、今になって大野さん出たいって言うんだから…よし、それで頼むわ」
電話を切ると、恵子は大野さんに宣言する。
「てな訳で、秋ママ以外なら出るの無理、どうよ?」
大野「…分かりました。やります、秋ママ。(ニヤリと笑い)でもその代わり、クランクインまでの演技指導は、私が引き受けます!」
荻上「演技指導?あっもしや、その格好…」
荻上会長と会員たちは、黒いサマーセーターに黒のロングスカートという、大野さんの暑苦しい服装に今になってようやく注目し、その意味を悟った。
荻上「月影千草か!」
大野「見破ったわね。荻上千佳、恐ろしい子。(狂ったように)ホホホホホホホホ!」
一同『結局それがやりたかっただけだな…』



75 名前:30人いる! その87 sage 投稿日:2007/09/09(日) 20:59:06 ID:???
こうして現視研の面々は、クランクインに向けて始動した。
伊藤が国松ルームでの会議の翌日に、早くも脚本を上げてきて全員に台本が配布されたので、準備は予想以上に早く本格的な段階に入った。
国松と日垣は、着ぐるみとコスの制作を急ピッチで進めた。
小道具も担当している日垣は、銃その他のグッズについても準備を進めている。
実質的な特技監督である国松は、必要な特撮シーンについて準備を進める。
台場は相変わらず外回りでウロウロしている。
浅田と岸野は、カメラテストも兼ねてロケハンに忙しく動いていた。
豪田は必要なセットの本格的な制作にかかり、部室の外は殆ど工事中状態となった。
神田は各々の進捗状況と先輩たちのスケジュールを基に、仮の撮影スケジュールを作り始めていた。
どのみちスケジュールは変更の連続と考え、自治会に交渉して余ったホワイトボードを借りてきて、マグネットシートで人員や作業のコマを作り、作業進捗表を作成した。
チーフ助監督の伊藤は、それらの会員たちの間を行ったり来たりしつつ、各々の作業を手伝っていた。
そして総監督の恵子は、相変わらず「ケロロ軍曹」を見つつ、並行して様々な特撮やアニメのビデオを不眠不休で見続けていた。
まあ厳密には休憩は時々していたが、寝ていないのは本当だった。
ゴジラ10回鑑賞会以来、恵子の脳は活性化し続けていたが、問題もあった。
伊藤から渡された脚本を読んだ時、ひとつひとつのシーンについて様々な映像のパターンが1度にイメージ出来過ぎて、逆にどう撮るべきか迷う破目になった。
「こういう時、オタクっていろいろ見た『経験値』ってやつで何とかするんだろな」
そう考えた恵子は、遅まきながら映像体験の乏しさを強引に補おうとしていたのだ。



76 名前:30人いる! その88 sage 投稿日:2007/09/09(日) 21:04:14 ID:???
役者の面々も負けていなかった。
予想以上に早く脚本が上がったので、早くも本読み稽古に入り、それと並行して毎朝の特訓を開始した。
ちなみにスーとアンジェラも引越しが無事に終わり、早くも合流出来た。
特訓のメニューは、ストレッチ、ジョギング、腹筋、スクワット、発声練習など、普通の演劇部員がやりそうな内容だった。
メニューだけ見る分には。

その日の朝、斑目はいつもより2時間近く早く目を覚ました。
昨夜職場の飲み会があり少々飲み過ぎたせいで、明け方に激しい腹痛に襲われたのだ。
下痢体質の斑目は、飲み過ぎると二日酔いの代わりに下痢になることが多い。
トイレから戻り、時間を見ようと反射的に携帯を探した。
普段は寝る前にベッドの近くに持って来て、タイマーを目覚まし時計代わりに使っているのだ。
だがベッドの周囲には見当たらない。
昨夜のことを思い出してみると、泥酔状態で着替えて寝るのがやっとだったので、携帯をいじった記憶が無い。
鞄の中や昨日着ていたスーツを探してみるが見当たらない。
落ち着いて昨日の自分の行動を思い起こしてみる。
『飲み屋で携帯使った記憶は無いなあ。会社でもそうだ。最近最後に携帯使ったのは…』
斑目は手を打って思わず声に出した。
「部室だ!」



77 名前:30人いる! その89 sage 投稿日:2007/09/09(日) 21:17:20 ID:???
昨日の昼休み、例によって斑目は部室に立ち寄った。
そこでつい長話をしてしまい、社長から「はよ帰って来い」と催促の電話があったのだ。
『あん時が多分、携帯さわった1番最後だな』
電話を受けた後、斑目はまだ食べ終わっていなかった昼飯を片付けた。
その時に机の上に一旦携帯を置いたような気がする。
『どうする?今から取りに行くか?』
時刻は午前5時、今日は仕事は休みだ。
日曜日に工事の手伝いに駆り出されたので、その代休なのだ。
もう少し寝ていたいが、仕事関係のメモリーもたくさん入っている携帯を放って置く訳にも行かず、斑目は大学に向かった。

早朝とは言え、8月下旬はまだまだ暑い。
軽く汗ばみつつ、斑目は大学に到着した。
「この時間じゃあいつら居ないし、守衛さんに開けてもらうか」
そんなことを考えつつ、サークル棟に向かって大学構内を歩き始める。
遠くから、何かを叫ぶ声が聞こえてきた。
「何だろう?体育会の連中かな?」
あまり目立った戦績は無いが、椎応にも朝から練習している体育会はある。
だから最初斑目は、声の主はそういう集まりだと思っていた。
歩みを進める内に段々その声は大きくなっていき、その内容が聞き取れるようになった。
「ひとつ、腹ペコのまま学校に行かぬこと!」
「ひとつ、天気のいい日には布団を干すこと!」
思わず立ち止まる斑目。
「これって確か、前に国松さんが言ってた『ウルトラ五つの誓い』とかいうやつじゃ…」



78 名前:30人いる! その90 sage 投稿日:2007/09/09(日) 21:21:15 ID:???
やがて声の主たちが斑目の方に走って来た。
(と言っても、ジョギング程度のゆったりしたペースだが)
斑目の予想通り、声の主は現視研の面々だった。
みんなTシャツに短パンもしくはジャージというスタイルだ。
何故か荻上会長、国松、ニャー子、沢田、スー、クッチー、日垣だけはトレーナーやスウェットなどで厚着している。
当初の予定であった役者の面々だけでなく、スタッフまで一緒に走ってる。
斑目を見た現視研一同、その場駆け足に切り替え、やがて止まる。
荻上「おはようございます、斑目先輩」
他一同も口々に斑目に挨拶する。
斑目「おはよう。朝っぱらからどうしたの?」
荻上「クランクイン前の体力作りです」
斑目「クランクイン?ああ、映画作るんだったね」
荻上「撮影開始まで間があるんで、それまで体を作っておこうってことで、早朝トレーニング始めたんです」
体育会系の巴、日垣、国松、アンジェラたちの息は大して乱れていない。
一方正反対の非体育会系の沢田、有吉、豪田、そして大野さんは苦しそうだった。
斑目「『何で大野さんまで居るんだ?』えらく本格的だねえ。撮影の用意って、まだ出来てないの?」
荻上「小道具とかセットとかがまだ出来てないし、それに恵子さんが…」
斑目「恵子ちゃんがどしたの?」
恵子の姿は見当たらなかった。
国松「監督は今部屋にこもって、今度作る映画のイメージを固めてらっしゃるんです」



79 名前:30人いる! その91 sage 投稿日:2007/09/09(日) 21:26:01 ID:???
国松によれば、恵子は前述のように「ケロロ軍曹」を見るのと並行して、パロディの元ネタになったアニメや特撮ドラマのビデオを次々と見ているという。
アニメは国松の家に無いものも多かったので、国松が他の会員に連絡して探し、その会員(または国松)に持って来させていた。
その内段々それも面倒になってきて、恵子の方からビデオの持ち主のところへ出向き、時間によってはそのまま泊り込んだ。
国松から借りたケロロのビデオと共に。
「あたしが行った方が速いし、千里んとこばっか泊まるのも悪りいからな。それに時々は外の空気吸ってお日様の光浴びてえし」
こうして恵子は、次々とビデオを消化しつつ1年生たちの部屋を泊まり歩いた。
その中には男子会員の部屋もあったが、恵子は気にしなかった。
「別に襲ってもいいぞ。宿代代わりに1回ぐらいは構わねえから」
むしろ言われた相手の方がドギマギし困惑していた。

斑目「何か凄いことになってるね…笹原は知ってるの、恵子ちゃんのこと?」
荻上「この数日笹原さん忙しくて、なかなか直接話せなくてメールのやり取りだけになってるんで、書いた覚えはあるけど読んでるかどうか…」
斑目「そんなに忙しいの?」
荻上「何でも他の社員の人が倒れて、今5人担当してる状態らしいんです。それに…」
斑目「まだあるの?」
荻上「例のB先生がまた自殺しそうになって、今回は入院したそうなんです」
B先生とは元々笹原が担当している漫画家の1人で、ベテランの割に今ひとつメジャーになり切れない為にメンヘルの気があり、自殺未遂を繰り返していた。
斑目「何か兄妹揃ってえらいことになってるな。大丈夫か、あいつ?そんな調子じゃ今度は笹原が倒れかねんな…」



80 名前:30人いる! その92 sage 投稿日:2007/09/09(日) 21:30:36 ID:???
斑目「それにしても荻上さん、何でそんなに厚着してるの?」
荻上「厚着してる人は、全員着ぐるみの人なんです」
斑目「ああ、今から暑いのに慣れようってことね。でも役者の人はともかく、なんで全員で走ってるの?」
荻上「最初は役者だけで走る予定だったんですが、スタッフの子たちも付き合うって言い出したんです」
岸野「まあスーツアクターの大半が女の子ですからね。女の子だけ走らせて自分たちは寝てるのも気が引けますし」
伊藤「それにスタッフだって走り回りますからニャー」
アンジェラ「てゆーか、一蓮托生?」
その後しばらく話した後、斑目は部室の鍵を受け取り、無事に携帯を回収した。
屋上でスクワットをやりながら挨拶する会員たちに軽く手を上げて応え、斑目は部室を後にした。
帰り道、ふと立ち止まり振り返ってサークル棟を見上げて呟いた。
「風が吹くな…」

次の日の昼下がり、のっそりとキャンパス内を歩く巨体があった。
久我山だ。
夏コミの時には別人のように痩せていた(と言っても普通の人よりは太っていたが)久我山だったが、この頃にはリバウンドで以前の巨体に近付きつつあった。
今日彼がやって来たのは、部室にある資料を借りる為だ。
今年の夏コミに接待で連れて来た医者たちの何人かが、帰りに自分たちもコミフェスに出品したいと言い出したのだ。



81 名前:30人いる! その93 sage 投稿日:2007/09/09(日) 21:34:18 ID:???
そこで久我山は、とりあえず冬コミの申し込みをしてやり、漫画を描くことについては全くの初心者である彼らの為に、漫画の入門書を用意することにした。
そして前に来た時に、部室にその手の本が数冊あったのを思い出したのだ。
と言っても、現視研の備品をそのまま医者たちにまた貸しする積りは無い。
彼自身がその本を読んでみて、良さそうと思えるものを買って渡すつもりだ。
意外なことに彼はその手の本を持っていなかった。
元々絵描き属性はあっても漫画にすることまでは考えていなかった久我山は、見本にする為のイラスト集の類いはたくさん持っていたが、漫画入門系の本は持っていなかった。
だから4年生の時に初めて夏コミに出品した際、彼が漫画を描く為に最初に参考にしたのはネットの情報だった。
(間の悪いことに、夏コミ前の頃の近くの本屋や図書館には、たまたまその手の本で彼が気に入る内容の物が無かった)
だが断片的な情報を基に描こうとしても、なかなか思うように進まなかった。
だから笹原がキレるまで原稿が上がらなかったのは、必ずしも就職活動が忙しかったせいだけでも無かった。
最終的に漫画の形に仕上げられたのは、荻上会長の経験値に助けられた分が大きかった。
だから出来れば今回の件についても、荻上会長ともいろいろ話そうと思っていた。
後輩に頭を下げていろいろ尋ねるのは格好悪いという気持ちも無いでは無いが、相手は今やプロの漫画家なのだから、それだけの価値はある。
仕事が予定より早く終わり、ふと思い付いて来たので事前に連絡はしていないが、最近はかなりの高確率で部室に居るし、最悪でもあの人数だから誰か部室に居るだろう。



93 名前:30人いる! その94 sage 投稿日:2007/09/17(月) 20:12:04 ID:???
サークル棟に向かう途中、久我山は柔道場の前を通り掛かった。
この大学の柔道場は、通路側に大きな窓(人が出入り出来る大きさで、下辺は床に付いてるから、ガラス戸と言うべきか)がある。
稽古中にぶつかって破損するのを防ぐ為か、内側には雨戸のような鉄格子の扉があり、外から見ると金網デスマッチのような格好になる。
そういう立地のせいか、特にスター選手が居る訳でも強豪校でも無いのに、稽古中の柔道場の前には見物人がよく居た。
初心者の柔道部員の中には、かつてその見物人だった者もけっこう居て、この立地は地道に柔道部存続に貢献していた。

久我山は道場の中で動く人影をチラリと見て、ふと足を止めた。
「あれっ?みょっ妙な時間に稽古やってるな」
久我山の記憶では、椎応の柔道部は朝と夕方に全体での練習をやる。
それ以外の時間は、2〜3人程度の人数で自主的に練習してるのをたまに見かける程度だ。
ところが今、道場には少なくとも10数人は居る。
男女半々ぐらいで、女子がやや多い。
柔道着を着ている者は3〜4人しか居らず、残りの者はジャージやトレーナー姿だ。
どうやら受身の練習をしているらしい。
「なっ何かの同好会かな?」
好奇心に駆られて道場に近付いた久我山、思わず声を上げた。
「おっ、荻上さん?そっそれに他のみんなは…」
そう、道場で受身の練習をしていたのは、現視研の面々だった。



94 名前:30人いる! その95 sage 投稿日:2007/09/17(月) 20:14:03 ID:???
「あっ久我山先輩、こんにちは」
久我山を最初に見つけたのは国松だった。
柔道着姿だ。
彼女は元柔道部のマネージャーなのだが、一応自分用の柔道着も持っているのだ。
他の会員たちも気付き、挨拶しつつ久我山に近付く。
久我山「こんなとこで何やってんの?」
荻上「映画のクランクイン前の特訓です」
荻上会長の説明は、次の通りだった。
撮影時には着ぐるみの担当者は多少のアクションを伴なうので、突き飛ばされたり投げられたりもする。
豪田が岩型のクッションを制作したり、着ぐるみの頭部にヘルメットを仕込むなどいろいろ安全対策はしているが、最後に身を守るのは自分自身だ。
そこでせめて、クランクイン前に受身の基本だけでも覚えようというのが、今回の主旨だ。
なお、着ぐるみ担当者以外の会員たちも、本来受身は関係無いのだが、例によって付き合っていた。

久我山「なっ何か大変だね」
荻上「そう言えば久我山先輩、今日はどうしたんですか?」
久我山は前述の事情を話した。
荻上「そんじゃあとりあえず、先に部室行きましょうか?」
久我山「そっそりゃ悪いから、そっち終わるまで待つよ」
荻上「お時間、大丈夫ですか?」
久我山「いいよ、今日はこの後はヒマだし」
それに現視研の面々がどんな特訓をやっているのか、少し興味があったので見ていたかったというのもあった。


95 名前:30人いる! その96 sage 投稿日:2007/09/17(月) 20:15:47 ID:???
受身オンリーとは言え、現視研の特訓はなかなか本格的だった。
元柔道部のマネージャーの国松は、部員から柔道を一応習っていた。
まあかじった程度のレベルだから決して強くはないが、受身は完璧だった。
そこで国松がコーチ役となって、会員たちに受身を教えていた。
その教え方は意外と上手いらしく、どちらかと言えば運動の苦手な沢田や有吉までそれなりに形になっていた。
その一方で国松はアンジェラに、クッチーは日垣に、基本的な投げ技を教えていた。
受身をマスターする為には、最終的には投げられてみなければならない。
柔道経験者は国松1人なので、会員全員を投げるには人手不足という訳だ。
ちなみにクッチーは、警察官の試験に備えて、最近柔道を習い始めた。
とは言っても、師匠は元々通っている空手道場の柔道経験者の師範代であり、使える投げ技も出足払いと大腰だけで、道着も当然空手用だ。
本来なら全員に投げ技教えたいのだが、何しろクランクインまで時間が無い。
そこで体力と運動神経ありそうな日垣と、レスリング経験者のアンジェラ(反り投げ系は出来るが背負い投げ系が何故か出来ない)を選んで集中的に教えることにしたのだ。
(とりあえず柔道部から借りられた道着が2人分という事情もあった)

そんな中、荻上会長1人だけは別メニューだった。
陸上部から借りてきたらしい、走り高跳び用のマットを道場に持ち込み、その上での練習なのだが、その動作は他の会員たちとは著しく違っていた。
両足を大きく前に振り上げるようにして跳び上がり、背中から落ちるようにして受身を取る。
かなりオーバーアクションな後ろ受身で、その動きはセントーンに似ていた。
(注釈)セントーン
倒れた相手の上に飛び上がって、背中または尻から落ちてダメージを与えるプロレス技。
ちなみにセントーンとは、スペイン語で尻餅のこと。


96 名前:30人いる! その97 sage 投稿日:2007/09/17(月) 20:17:30 ID:???
見学していた久我山が尋ねる。
「くっ国松さん、荻上さんは何やってるの?」
国松「あっ、会長は軍曹さんの役なんで、特別メニューなんです」
久我山「軍曹さん?…まさかひょっとして荻上さんがケロロ?!」
国松「(にこやかに)はいっ」
久我山は、「ケロロ軍曹」の実写映画を撮るという話は聞いていたが、まさか荻上会長自ら着ぐるみコスをするとは思っていなかったのだ。
久我山「でっでも、何で軍曹だとああいう受身になるの?」
国松「恵子監督が『ケロロ軍曹』見てて1番ウケてたシーンって、ケロロがバナナで転ぶシーンなんです」
久我山「なるほどバナナか、って、かっ監督恵子ちゃんなの?!」
予想外の情報の連続に、軽く目まいのする久我山。
国松「まあシナリオには無いんですけど、恵子監督気まぐれだから、後で多分やろうって仰る予感がするんで。まあ念の為ですけどね」
その後1時間近く、久我山は現視研の受身特訓を見学しつつ、いろいろ映画についての話を聞いた。


97 名前:30人いる! その98 sage 投稿日:2007/09/17(月) 20:19:29 ID:???
受身の特訓の後、他の会員たちはそれぞれの準備の為に引き上げ、部室は荻上会長と久我山の2人きりになった。
久我山は部室の蔵書を1冊1冊丹念に読み、荻上会長は自分のノートパソコンを持ち込んでネームを作っていた。
久我山「わっ悪いね、忙しいのに付き合わせちゃって」
荻上「いいですよ。私も合間にネームやりたかったんで」
久我山「それって、今度連載するって漫画の?」
荻上「ええ、第8話のネームです」
久我山「はっ8話?あの、連載って確かまだ始まってなかったよね?」
荻上「映画の方がどうなるか分かんないんで、最悪撮影中は1枚も描けなくても大丈夫なように、原稿描きだめしておいたんです」
久我山「げっ原稿の方は、まさか7話まで出来てるの?」
荻上「まさか、さすがにそれは無理ですよ。5話までです、完成原稿は。6話と7話はネームだけですが、編集さんからオッケーもらいましたんで、これから描きます」
久我山「…あっ相変わらず仕事速いね」

その後しばらく、2人とも各々の作業に没頭し、沈黙の時が続いた。
ふと久我山は荻上会長を見る。
相変わらずネーム作りに没頭している荻上会長を見ている内に、何時しか彼の思考は過去の記憶をたどり始めていた。
『荻上さんが1年生の時って、部室でいつも漫画描いてたよな』
4年生になってからの久我山は、部室には数えるほどしか来ていない。
その数少ない来訪時の記憶の中の荻上会長は、いつも漫画を描いていた。
まあもっともその頃は、本格的な原稿ではなくイラスト程度だったが。


98 名前:30人いる! その99 sage 投稿日:2007/09/17(月) 20:21:45 ID:???
『俺も現役の頃は、部室で絵ばっかり描いてたな』
久我山の思考は、いつしか自分が1年の頃にまで遡っていた。
『あの頃の部室って、単なるたまり場でしかなかったな…』
久我山が1年生の頃の現視研、そこは既成のオタサークルから微妙にずれているオタクたちの難民キャンプのような場所だった。
絵は描けるが漫画の原稿にまでは踏み出せない久我山。
作る側のオタ属性は何ひとつ無く、消費する側のオタとしてのオタ理論を延々語り続ける斑目。
気が付けば居たり居なかったりの、地縛霊のような初代会長
そしてコスプレに特化し過ぎて、アニ研で居場所を失った田中。
その4人が集ってぬるい空間を形成し、ぬるいオタ談義をする、1年生の久我山にとっての現視研とはそういうサークルだった。

そんな現視研の転機になったのは、笹原たちの代が入会したことだった。
完璧超人のような高坂。
その高坂に付いてきた、そもそもオタクですらない春日部さん。
現視研コスプレ部門活性化の立役者大野さん。
そして自分たちと同じヌルオタから、徐々に作る側のオタへと進化していった笹原。
この4人が現視研を活性化させ、現在の作る側のオタ中心の現視研の礎になった。
『それに比べて俺たちと来たら、何も作らなかったな…』
ふと久我山は、今の現視研と自分たちの頃の現視研を引き比べて、劣等感とも嫉妬ともつかないマイナスの感情が湧いてきたことを自覚した。


99 名前:30人いる! その100 sage 投稿日:2007/09/17(月) 20:25:59 ID:???
その時部室に来訪者があった。
「うぃーっす」
「ちわーす」
斑目と田中だった。
荻上「こんにちは。珍しいっすね、お2人で」
斑目「そっちにも珍しいのが居るじゃない」
久我山「よっよう」
田中「今日はどしたの?」
久我山は前述の事情を2人に話し、逆に2人にも来訪の理由を尋ねた。
斑目「(コンビニの弁当を突き出して)俺は例によって今から飯さ。そんでこっちに向かっている途中で、田中とバッタリ会ってね」
田中「俺は大野さんに会いに来たんだけど、あと1時間ばかし帰ってこないから、ちと時間潰しにね」
荻上「大野さん、どうかしたんですか?」
斑目「フィットネス通い出したんだよ、大野さん」
久我山「フィットネス?」
田中「ほら、彼女秋ママ役だから、最近ちょっと太ったこと気にしちゃってさ、何とかクランクインまでに体重落とそうと、エアロビクスとかいろいろやってるらしいんだよ」
久我山「あっ秋ママなんだ、大野さん…『そう言えば大野さん、受身特訓の時も居たよな。
あれからそのままフィットネスか。大変だな』」
斑目「大野さんの出番なんてほんの少しだし、原作より6年ぐらい後の話で、多分秋ママ40超えてるんだから、ちょっとぐらい太ってても大丈夫なのにな」
久我山「何でお前、そっそこまで映画制作について詳しく知ってるんだ?」
荻上「まあ、そこは女心ですよ。それに先ずは外見からキャラ作りしようっていう、レイヤー魂じゃないっすか」



100 名前:30人いる! その101 sage 投稿日:2007/09/17(月) 20:29:56 ID:???
その後しばらく、4人は各自の近況報告やオタ話を続けた。
久々のぬるい部室の空気の中、不意に久我山は高校の担任の教師の口癖を思い出した。

だが、どんなもんだろう。
これはこれでよかったのではないか。
人生はファミコンではないのだ。
必要な所だけ通って、必要なアイテムだけ集めてればいいというものではない。

うろ覚えだが、大意はこんな感じだった。
担任はプロレスオタで、授業や説教の際によくプロレス関係のオタ知識を引用した。
前述の口癖は、杉作J太郎というプロレスオタの漫画家が、プロレスラーのラッシャー木村について書いたエッセイの1節である。
ラッシャー木村は、日本プロレス→東京プロレス→国際プロレス→新日本プロレス→第一次UWF→全日本プロレス→ノアと、団体から団体へと渡り歩くレスラー人生を送った。
国際でエースになり、新日本でヒールに転向して酷使され、全日本でお笑いプロレスで人気者になる、そんな彼の人生の浮き沈みを杉作は、前述の1節のように総括した。
担任は事あるごとにこれを引用しては、いつもこう続けていた。
若い内に、せいぜい寄り道したり道に迷ったりしておけ。
それがお前たちの「経験値」になっていくんだから。


101 名前:30人いる! その102 sage 投稿日:2007/09/17(月) 20:32:41 ID:???
『これはこれでよかったんじゃないか』
斑目や田中とオタ話を続ける内に、久我山は自分たちの現視研会員としての4年間を肯定的に捉えられるようになった。
『ぬるいオタ話の出来るこいつらと出会えて、笹原たちが集まれる場を守ってきた、それだけでも俺たちがここに居た意味はあったんじゃないかな』
漫研やアニ研のように特化していない、ヌルオタのたまり場としての現視研。
だからこそ、隠れオタの笹原や、マイペースな完璧超人の高坂や、コスプレに特化した大野さん、そしてオタクですらない春日部さんが入れる余地があった。
それがあったからこそ、今の現視研がある。
それならそれで、自分たちは自分たちなりの役割を果たしたと考えていいんじゃないか。

「おいどした、久我山?」
斑目に声をかけられ、久我山は我に返った。
久我山「なっ何でもないよ。ちょっと考え事してただけ」
斑目「そうか…」
斑目を見つめる久我山。
斑目「ん?どした?」
久我山「何て言うか、斑目、田中、お前らと出会えて良かったよ」
部室の時間が一瞬停止した。
斑目「なっ、何だよ急に?」
田中「何かあったのか?」
赤面する斑目と田中。
一方言った久我山も赤面していた。
久我山「ちょっ、ちょっと昔のこと思い出してただけだよ」



102 名前:30人いる! その103 sage 投稿日:2007/09/17(月) 21:41:17 ID:???
その時3人は、背後に異様な熱気を感じた。
3人揃って振り返ると、赤面した荻上会長が熱い視線を向けていた。
田中・久我山「荻上さん?」
斑目はいち早く熱い視線の意味を悟り、荻上会長に近付く。
斑目「まさか俺たち3人が、そういう妄想のネタになる日が来るとは、1年の時は想像出来なかったな。(筆をシビビビしつつ)荻上さーん、戻って来てー!」
田中・久我山『(互いに見つめ合いながら滝汗)よくこいつ相手でそんな妄想が出来るな…』

その後斑目は食事を終えて職場に戻り、田中は大野さんから連絡があって部室を後にした。
久我山は当初の目的の本を数冊選んで借りた。
久我山「きょっ今日はいろいろありがとう。すまんね、お手数かけて」
荻上「いっいえ、こちらこそいろいろご迷惑を…」
言いながら赤面する荻上会長。
久我山『どういうカップリングでどういう妄想してたかは、訊かない方が良さそうだな…』

こうして久我山は部室を後にした。
最初映画制作の話を聞いた時、予想以上にいろいろ大規模になっていることに驚いた。
そしてかつて自分が居た現視研とはまるで違うサークルになってしまったことを少し寂しいとも思い、自分たちが何もして来なかったことを引け目に感じた。
だが斑目と田中に会ったことで、自分たちの4年間も決して無駄ではないと思えるようになった。
そうなると今度は頑張り屋の後輩たちを頼もしく思い、本気で可愛いと感じた。
そして可能な限りの援助はしてやりたいと思った。
『孫を持ったお祖父ちゃんの気持ちって、こんな感じなのかな?』



103 名前:30人いる! 次回予告 sage 投稿日:2007/09/17(月) 21:52:42 ID:???
やっぱ専プラって必要なんですかね?
途中連投規制喰らって、最後の分は1時間近く投下出来ませんでした。
あと今回、ブーちゃんの話が予想以上に長くなっちゃって、笹原の話まで手が回りませんでした。
笹原は次回登板しますので、今しばらくお待ちを。
それにしてもこの話、とうとう100レス超えちゃいましたけど、まだクランクインに辿り着けないとは…

次回、それぞれの地獄をくぐって来た兄妹が再会する。
今回はこれまでです。


逆噴射J ◆lW31l/VtQc mirrorhenkan