ピカチュウ「昔はよかった・・・」

2 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/19(月) 20:03:09.04 ID:YICxTDW40
元ロケット団の三人組が見舞いに来てから三日後の朝、
花瓶に瑞々しい花を生けながら、看護婦さんはまだ微睡みの中にいる僕に語りかけた。

「あともうしばらくで、サカキ様がお見えになります。
 今のうちに準備をしましょうね」
「ピィカ……」

身体を起こしてもらい、濡れたタオルで身体を拭かれる。
口を開く。舌下に体温計を添えられる。口を閉じる。
やがて電子音が鳴り、看護婦さんが体温計の指数を確認する。
体温計を取り出すときにさりげなく頬をつままれたことは、眠気もあって不問にする。
彼女は点滴の薬液パックを手際よく交換し、調節弁に微妙な加減をする。
僕は余計な身動きをせずに、彼女の動きをじっと眺める。
この三日間の間に、僕は彼女を信頼できるようになっていた。
彼女が非常に優秀なポケモン医療従事者であることは明らかだった。
ただ、患者への献身的姿勢が倒錯的な保護欲に繋がることが間々あり、
その所為で僕は彼女に見守られながら午睡したり、
なんとか一人で食事ができるほどに回復しているのにも関わらず、
ポケモンフードの一粒一粒を彼女の手で食べさせてもらわなければならなかった。
このままでは怠け癖がついてしまう。
そう分かっていても、面と向かって彼女の『医療行為』を拒否できない。

「ピ、ピカチュ」

やれやれ、いつから僕はこんな優遊不断な性格になってしまったんだ?

「もう少し眠っていてもかまいませんよ」

看護婦さんが僕の口元まで毛布を引き上げてくれる。
お言葉に甘えて二度寝しようかと考える。

5 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/19(月) 20:06:31.90 ID:YICxTDW40
しかしその試みは中断を余儀なくされた。
皎潔の密室が開け放たれ、臙脂色のスーツを着こなした杖突の男が入ってくる。
サカキだった。
入れ替わりに看護婦さんが退室するのを、僕は薄く開けた目で見送った。
サカキに忠誠を誓い絶対の信頼を置きながらも、
僕のことが心配でたまらないという風な二律背反の瞳が印象的だった。

「起きているな」

とサカキは言った。ここに来て分かったことだが、
多くの支配者がそうであったように彼もまた無駄を嫌い極力省く性格をしている。
何故ノックをしなかったのかと非難の視線を浴びせても、
『事前に看護婦を通して伝えてあったのだ、問題はあるまい』と切り替えされるのがオチだ、
僕は毛布から首を出して答えた。

「ピィ」

起きているとも。

「今日この場に訪れたのは、昨日一昨日のような見舞いめいた容態確認のためではない。
 お前と対話するためだ。来い、ペルシアン」



6 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/19(月) 20:07:11.70 ID:YICxTDW40
優雅な足運びで現れた白猫は、サカキの傍らで彼を仰いだ。

「翻訳しろ。一字一句、可能な限りな」
「ニャー」

その従順な様に、僕はこのペルシアンがかつてムサシとコジロウの間に収まっていたニャースの進化した姿であることを忘れそうになる。

「ピーカ?」

君は本当に元ニャースのペルシアンなのか?

「失礼だニャ。ニャーはニャーであってそれ以外の何者でもないニャ!」

サカキは穏やかな笑みで静かに言った。

「"翻訳"しろと言ったはずだが?」
「ニャッ……すみませんニャ。ピカチュウはニャーが、その、
 昔ピカチュウを追いかけ回していたあのニャースと同一のポケモンかどうか尋ねてきたんですニャ」

7 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/19(月) 20:07:43.53 ID:YICxTDW40
「なるほど」

サカキは感慨深げに言った。

「ピカチュウが覚醒してからお前と話すのはこれが初めてだ。
 お前が現在私の手許にいることについて違和感を感じるのも無理はない。
 そうだな?」
「そ、その通りですニャ」

ペルシアンは誰の目に見ても明らかなくらいに狼狽えている。
サカキはペルシアンが秘密で僕に会っていたことを知った上で、あんな質問をしているのだ。

「ピカピーカ」

意地の悪い性格をしているな、まったく。

「ニャ、ニャーにそんな翻訳は出来ないニャ!」
「全て翻訳しろ。どんな内容であれ仲介のお前に責任はないのだからな」

よほど主を貶す言葉を口にしたくなかったと見える、ペルシアンは口をモゴモゴさせた後、

「ボスは意地悪だと言っていますニャ」

と苦しそうに言い、拳骨が飛んでくるのを怖がるみたいに頭を抱えた。
サカキは愉快そうに言った。

「いかにも、私は意地悪だ。
 しかしお前にそれを指摘されたところで、だから何だというのだ?」

……ただの感想だよ。

8 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/19(月) 20:18:17.89 ID:YICxTDW40
「なら胸に仕舞っておくことだ」

サカキはそう言うと予め用意されていた椅子に腰を下ろし、
これから話すことについて思いを巡らすように細長い息を吐いた。
あるいはただ単に足が楽になったからかもしれないが。
そういえばサカキが杖を突いている理由は聞いていなかったな、と僕はふと思い出した。
しかし今尋ねるべきことではないと思い直し、サカキが口火を切るのを待った。
ペルシアンが手持ち無沙汰そうに髭を撫で始めた頃、サカキは言った。

「私が知りたい情報は非常に限定されたものだ」

11 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/19(月) 20:42:36.86 ID:YICxTDW40
僕はここで初めて目を覚ました時のことを思い出す。
記憶にまだ障害が残っていた僕に、サカキは落ち着き払った口調ながらも、
しきりに最終実験の相手ポケモンについて情報を引き出そうとしていた。

「私は恐らくお前の質問にほとんど対して明確な回答ができる。
 しかし、私が未確認かつ、早急に事実確認せねばならない事項が一つある。
 察しの良いお前ならもう分かっているだろう。
 お前が私の部下から脱出される直前に相対していたポケモンについて、子細に説明してもらいたいのだ」
「ピ、ピカチュ?」

いいだろう。
でも、それを語り終えた後は僕が抱えている膨大な質問に答えてくれるね?
ペルシアンを通した僕の願いに、サカキは「約束しよう」と断言してくれた。
僕は勿体ぶらずに言った。

「ピカピーカ、ピカ、チュ」
「ニャ、ニャんですと!?」

ペルシアンが己の役目を忘れて唖然とする。
ゆっくりと言い直す。
ペルシアンはそれでも半信半疑な様子で口をパクパクさせていたが、しかしサカキに睨まれ僕の言葉を翻訳した。

「ピカチュウはあの場所で、ミュウツーと戦ったと言っていますニャ」

16 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/19(月) 21:12:00.71 ID:YICxTDW40
「やはり完成していたか」

僕はその反応から、サカキがあの施設、延いてはその背後に潜む何か巨大な陰謀の核に触れていると推測した。
この世には伝説のポケモンが存在する。
火の神、ファイアー。
雷の神、サンダー。
氷の神、フリーザー。
自然を司るとされているこれら三鳥は
その中でも特にポピュラーな伝説ポケモンだが、
幻ポケモン・ミュウの世俗的認知度には劣るだろう。
人々に知られ噂されているのに幻のポケモンとは矛盾しているように聞こえるが、
その二つ名は事実に基づいて名付けられており、目撃例は前述の三鳥よりも遥かに少なく証言も曖昧だ。
だからミュウは永い間、世界を旅するポケモントレーナーが描いた空想の産物だと言われていた。
しかしとある探索チームが持ち帰った資料からミュウの遺伝子が発見されたことにより、
一部の研究者の中で、ミュウは現実に生きるポケモンとして認められた。
ミュウの遺伝子は当時の遺伝子工学の粋を結して研究された。
研究者たちが考えたのは、全てのポケモンの遺伝子を併せ持つミュウのそれから、最強のポケモンを作り出すことだった。

20 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/19(月) 21:39:21.13 ID:YICxTDW40
結果的にその試みは成功した。
名も無き孤島の、名も無き研究所で。
莫大な資金援助によって用意された最新の研究設備と優秀な研究者たちは、
世界中のどんなポケモンよりも強いポケモンを創り出した。
その名を「ミュウツー」という。
しかし喜びも束の間、代償として支払われたのは研究者たちの命だった。
ミュウツーは自分を創った人間を怨んだ。根因であるミュウを憎んだ。
自分がクローンであることに劣等感を抱いた。
そうして彼は、人間に復讐することを決めた。
優秀なポケモントレーナーを孤島に集め、
彼らが持つポケモンのクローンを創り、
それとオリジナルを戦わせることで優劣をつけようとした。
そのポケモントレーナーとして選ばれたのが、サトシだった。
クローンとオリジナルが互角の戦いを繰り広げ、消耗し、倒れていく中で、
ミュウツーと、ミュウツーの存在に気付いて現れたミュウだけが不毛の争いを続けていた。
サトシにはそれが我慢ならなかったのだろう、
自分の身体を以てミュウとミュウツーの争いを仲介しようとした。
それは失敗に終わった。彼は死んでしまったかのように思えた。
だが、彼の行動はオリジナルとクローン両方の心を打ち、争いは終わった。
サトシは回復し、改心したミュウツーはミュウやクローンポケモンと共にどこかへ去っていった。
その後の彼らの消息を、僕は知らない。


30 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/19(月) 21:55:21.45 ID:YICxTDW40
だから僕はサカキにこう付け加える。

「チュウ、ピカチュ」

僕があの地下研究施設で相対したポケモンは、ミュウツーであって、ミュウツーじゃない。
強化骨格の合間に見えた体表が漆黒であったという外見的な差違は関係なく、
生きることの意味を見つけようとしていたあの悩み多きミュウツーと目の前の人形のようなポケモンはは決定的に違うと、
鍔迫り合いながら確信していた。

50 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/19(月) 23:34:15.13 ID:YICxTDW40
サカキは険しい表情で続きを促した。
僕は戦闘中に感じたある違和感や、記憶の整合性を取り戻してから思い出したマサキの話について語ることにした。

「ピカ、ピカピーカ、チュウ」

僕は本物のミュウツーと戦ったことがある。
そしてその時の記憶は今も鮮明に残っている。
彼は最強の名に恥じぬ、圧倒的な力を持っていた。
それに比べて僕があの地下研究施設で戦ったミュウツーは、今から思えば弱すぎた。

「というと?」

彼は、過去に彼が得意としていたサイコキネシスやテレポートといった技を使わなかったんだよ。
それは意図的に封印しているというよりは、使いたくても使えない、というような印象を受けた。
なんとなくだけどね。


53 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/19(月) 23:47:50.95 ID:YICxTDW40
「なんとなくでも構わん。
 あの場にいたお前だけが知っていることが、他にもあるはずだ」
「ピカ、チュウ」

君の部下が僕を助けに来てくれた時――正確には突入する際に地上で混乱を巻き起こした時――実験は突然中止された。
といっても、中断のアナウンスが流れたわけではなく、
ミュウツーの姿形をしたそのポケモンが停止したことによって実験の中止を知ったんだ。
このことから伺えるのは、彼が完全に研究者たちの管理下に置かれていたということだ。
彼に自由意志はなかった。
といっても、強制的に命令に従わせられているわけではなく、
彼には命令を吟味する思考そのものが無いようだった。
いうなればポケモンという名の機械人形だよ。

10 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/22(木) 19:40:52.60 ID:6ZlytK0D0
「制御のために自我を取り上げたか。
 が、しかし――」

言い淀んだ先の言葉がとても気になったが、
それは後で聞かせてもらえばいいだろうと思い直し、

「ピカピカー」

軟禁当初に僕の世話を見ていたのが、先端技術研究所副所長の木戸マサキであることを告げた。

「知っている」

やっぱりね。僕の所在を突き止めた君のことだ、そんな気がしていたよ。

「ピカ、ピカ、チュウ」

僕は既にサカキの想像が及んでいることを知りながら、
マサキが僕に教えてくれた強化骨格と最終被験体の関連性について述べた。
――強化骨格は最終被験体をベースにして量産される。
最終被験体はミュウツー(厳密にはミュウツーに酷似したポケモン)だった。
ミュウツーは生殖機能を持たない。
既に生物として完成し、最強であるが故に、子孫を残す必要がないからだ。
しかし強化骨格が量産される以上、その数と同じだけのミュウツーが用意されなければならない。

11 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/22(木) 19:53:32.87 ID:6ZlytK0D0
推理は自ずと過去に帰結する。
ミュウツーは遺伝子工学の粋を結して創造された。
資料に不足はない。科学技術も当時と比べて数段進歩を遂げている。
ミュウツーのクローンを創るのは、そう難しいことではないはずだ。
サカキは頷き、部屋の左に面した窓に視線を向けた。
しかし僕には彼が、窓外の景色を透かした先に、遠い過去の記憶を見ているように感じられた。

「ミュウスリー」
「チュウ?」

ミュウスリー?

「彼らが便宜的に読んでいる、そのポケモンの名だ。
 ミュウツーがミュウを基にして創られたように、ミュウスリーもミュウツーを基にして創られたのだ」

15 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/22(木) 20:07:37.93 ID:6ZlytK0D0
「ミュウの持つ高次のESP能力を戦闘に特化させた結果、
 その副作用として、ミュウツーはミュウとは異なる身体的特徴を得た。
 しかしミュウスリーの場合は、ミュウツーのクローンと言って差し支えがない。
 ミュウツーの完成度の高さ故に、改変の余地が無かったのだろうな。
 体表が黒く変色していたらしいが、それは恐らく、
 ミュウツーとの区別、或いは強化骨格の損傷程度を視認しやすくするためだろう」

君はやけにミュウツーについて詳しいんだな。
僕は何気なく聞いたつもりだった。
が、サカキの返答は僕の予想を軽く上回っていた。

「当然だ。私はオリジナルのミュウツーを従えていたことがあるのだからな」

16 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/22(木) 20:21:54.23 ID:6ZlytK0D0
なんだって?
君のトレーナーとしての力量を軽んじているわけではないが、
ミュウツーは誰かに命令されることを最も嫌っていたはずだ。

「お前とお前の主がミュウツーと出会うよりも前、
 ミュウツーが自分を創りだした研究所を破壊し、その場にいた研究者を皆殺しにしたあの孤島で、
 わたしは葛藤に喘ぐミュウツーに接触を持った。
 ――お前は強大な力を持て余し、それどう使うべきなのか、悩み、定めかねている、
 私が道標を教えてやろう、力とは破壊と略奪のために使うべきなのだ、
 お前は力の抑制と正しい行使のために私を利用し、その代償として私はお前に協力してもらう――。
 私はそう騙った。
 『利害の一致』はミュウツーを納得させ、かくして私は最強のポケモントレーナーとなったのだ」

22 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/22(木) 20:48:04.45 ID:6ZlytK0D0
しかし、とサカキは平坦な口調で続ける。

「お前も知ってのとおり、ミュウツーは悩み多きポケモンだった。
 奴は人間を含めた地球上のどのような生物よりも明晰な頭脳を持っていた。
 私は生まれて間もない奴の思考の虚をついたに過ぎない。
 自我の模索を始めたミュウツーは実に素早く行動を起こした。
 奴は私の屋敷を破壊し、私の元を去っていった。
 あの時すぐに脱出していなければ、私は瓦礫に埋もれて死んでいただろう。
 私はその後、当時屋敷の警備を行っていた部下の死亡者リストに目を通しながら、
 ミュウツーを逃がしてしまったことに深い自責の感情を抱いている私に気がついていた。
 奴は他の生物を殺すことに特別な感情を持たない。
 無感情に、無感動に、己の邪魔となるものを排除する。
 奴はやがて人類の天敵となりうるのではないか。
 結果的にその予感は外れたが、
 もしお前の元主――サトシ――がミュウツーを改心させていなければ、
 ミュウツーはそう遠くない未来、人類に『復讐』を試みていたかもしれない」

24 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/22(木) 21:12:13.88 ID:6ZlytK0D0
僕はいつしか相槌を打つことを忘れてサカキの話に聞き入っていた。
何か言わなければならない、そう思ったが適当な言葉が思い浮かばなかった。
ミュウツーを改心させたサトシの功績を誇る気にも、人類が復讐に遭わずに済んで良かったと安堵する気にもなれなかった。
結局僕は何も言わなかった。
翻訳すべき言葉のないペルシアンも黙っていた。
ささやかな沈黙の後、サカキは「昔話が過ぎたな」と言い、

「さて、私は早速、今の情報を然るべき者達に伝達しなければならない。
 話の続きはまた後日に行うとしよう。
 お前は次までに私に尋ねたいことを纏めておけ。
 多くの物事がそうであるように、質疑応答もスムースに進行することが望ましい」

杖を立て、前のめりになる姿勢で腰を上げた。
サカキが踵を返す。ペルシアンもその後に続きかけ、一瞬振り返って、

「リハビリ頑張るニャ」

と言ってくれた。ドアが閉まる。
入れ替わりに戻ってくるかに思えた看護婦さんは、しかし、まだ僕とサカキの話し合いが終わったと知らないようだった。
僕はリノリウムの床を鳴らすサカキの靴音が消えるまで、
彼とミュウツーが紡いだ会話について思いを巡らせていた。

52 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/22(木) 22:58:19.60 ID:6ZlytK0D0
壁時計の針が11の数字を指しても、処置室の扉は閉ざされたままだった。
秋の夜長、暖房の効いていない廊下は屋外のように冷たい空気で満ちていた。
けれど、あたしは寒さを感じなかった。
切れかけた蛍光灯が振動する、ぶーんという音も耳障りに聞こえなかった。
ただ、斜向かいにある扉が開かれる瞬間に、全神経を集中させていた。

「ねえ」

とカエデはくぐもった声で言った。

「聞いてる?」
「うん、聞いてる」

カエデは寒そうにワンピースコートの前を閉じて、首を竦めていた。
それはあたしが出かけに見たカエデの雰囲気に似ていた。
無事にポケモンセンターに辿り着いた後、
処置が終わるまで処置室前で待つと言ったあたしに、
カエデは「あたしも一緒に待つわ」と言って聞かなかった。
そのくせ、タイチが「俺も待つよ」と言った時は、「タイチくんは休んでいて」と言ってやんわりと断った。
カエデはあたしと二人きりで話したいことがある――色々と鈍いタイチにも流石にそれが分かったのだろう、
タイチはそれ以上は何も言わずに、ジョーイさんのところへ行ってしまった。



56 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/22(木) 23:15:08.41 ID:6ZlytK0D0
けど、処置室前の長椅子に腰を下ろしてから一時間、
あたしたちの交わした言葉は精々「遅いわね」「そうね」の反復くらいで、
だからあたしは今の今まで、カエデがあたしに何か話があるということをすっかり忘れていた。
カエデは言った。

「あたしさ、昔っからヒナタと喧嘩してばっかだったじゃない?」

あたしは頷く。

「何回、ママや叔母さまに仲直りさせられたのか、もう覚えてないわ」
「今から思い出すと、ほとんど、ってか全部あたしが原因だったのよ。
 でもやっぱ悔しいから、あたしはそれでも悪いのはヒナタに決まってるって、心の中で決めつけてたわけ。
 口には出さないでね」



58 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/22(木) 23:36:35.80 ID:6ZlytK0D0
あたしはカエデが何を言わんとしているのか予想することができなかった。
幼い頃の喧嘩を蒸し返して、何の意味があるんだろうと思った。

「でも、そんな捻くれてた小さなあたしが、唯一ヒナタの言ってることが正しいなあって、
 間違っていたのはあたしだったんだなあって、心から反省した出来事があったの。
 多分、ううん、絶対ヒナタは忘れてると思うわ。
 あたしにとっては忘れがたいことでも、その時のヒナタにすれば、
 口からすっと出た言葉だったんだろうし」
「その出来事って?」
「8才になるかならない頃だと思うけど、
 あたし、夏休みにヒナタの家に泊まりに行ったことがあったのよ。
 お母さんから借りたトサキントと一緒にね。
 ま、簡単に言えばあんたに見栄張りたかったのよ。
 あんたってば、まだ自分のポケモン持ってないの?
 これ、あたしが捕まえたポケモンよ、あたしはもう一人前のトレーナーなんだから――。
 たぶん、あたしはそんな生意気なことをべらべら喋ったんだと思うわ。
 案の定、あんたは怒って黙りこくっちゃってさ。
 そこでやめとけば良かったのに、調子に乗ったあたしは、トサキントをボールの外に出しちゃったのよ。
 触れ合うところを見せつけるつもりでね」

カエデが一息つく。
A4サイズのフォルダを抱えたジョーイさんが、あたしたちの目の前を横切っていく。
靴音が遠ざかった頃を見計らって、カエデは再び口火を切った。

「あたしは失敗したわ」

62 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/23(金) 00:03:23.14 ID:724v4c1C0
「失敗って、どういうこと?」
「トサキントはあたしに全然懐いてなかった。
 なのにあたしは無理矢理トサキントの身体に触ろうとして、その結果、角で手に傷を負ったの」

ほらここ見える?とカエデが右手を蛍光灯の明かりに翳し、左人差し指で右親指の付け根あたりを示す。
そこの部分だけうっすらと、肌の色が濃くなっているのが分かった。

「……ここ?」
「そう、そこ。傷自体は大したもんじゃなかったんだけど、叔母さんったら大袈裟に包帯まで巻いてくれてね。
 よく泣かなかったわねって誉めてもらったりもしたわ。
 でもね、ヒナタ。あたしにとったら痛みなんて、大したことじゃなかったのよ。
 あたしは悔しかったの。あんたに見栄張ろうとして、逆にそれが虚構だとバレたことが滅茶苦茶悔しかったわけ。
 あんたはあたしの怪我を心配してくれたけど、
 あたしにはそれが嫌味にしか聞こえなくて……ホント最低だったわねー、あたし」

あはは、と乾いた声で笑うカエデ。

「続けて。最後まで聞きたいの」
「ヒナタを責めることも出来ない。
 かといってイライラは全然消えてくれそうにない。ヒナタはあたしがその後、どうしたと思う?」

あたしは心の奥底に埋もれていた記憶が徐々に引き出されていくのを感じていた。
あれは本当に暑い夏の日のことだった。
カエデは顰めっ面のまま、それでも涙は一粒も零さずに、ママに包帯を巻かれていた。
そして、それから何事もなく夏休みは過ぎて行き――。
いきなり記憶が断線し、すぐに繋がる。幼いあたしは幼いカエデに、拙い言葉で怒鳴っていた。

「あたしはトサキントをボールの中に閉じ込めたのよ。
 ポケモンフードも、水ポケモンにとっては大切な水も、最低限しか与えなかった。
 ヒナタがそれに気付いたのは、丁度夏休みが半分くらい過ぎたあたりかしら」

3 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/23(金) 20:10:01.90 ID:724v4c1C0
「失敗って、どういうこと?」
「トサキントはあたしに全然懐いてなかった。
 なのにあたしは無理矢理トサキントの身体に触ろうとして、その結果、角で手に傷を負ったの」

ほらここ見える?とカエデが右手を蛍光灯の明かりに翳し、左人差し指で右親指の付け根あたりを示す。
そこの部分だけうっすらと、肌の色が濃くなっているのが分かった。

「……ここ?」
「そう、そこ。傷自体は大したもんじゃなかったんだけど、叔母さんったら大袈裟に包帯まで巻いてくれてね。
 よく泣かなかったわねって誉めてもらったりもしたわ。
 でもね、ヒナタ。あたしにとったら痛みなんて、大したことじゃなかったのよ。
 あたしは悔しかったの。あんたに見栄張ろうとして、逆にそれが虚構だとバレたことが滅茶苦茶悔しかったわけ。
 あんたはあたしの怪我を心配してくれたけど、
 あたしにはそれが嫌味にしか聞こえなくて……ホント最低だったわねー、あたし」

あはは、と乾いた声で笑うカエデ。

「続けて。最後まで聞きたいの」
「ヒナタを責めることも出来ない。
 かといってイライラは全然消えてくれそうにない。ヒナタはあたしがその後、どうしたと思う?」

あたしは心の奥底に埋もれていた記憶が徐々に引き出されていくのを感じていた。
あれは本当に暑い夏の日のことだった。
カエデは顰めっ面のまま、それでも涙は一粒も零さずに、ママに包帯を巻かれていた。
そして、それから何事もなく夏休みは過ぎて行き――。
いきなり記憶が断線し、すぐに繋がる。幼いあたしは幼いカエデに、拙い言葉で怒鳴っていた。

「あたしはトサキントをボールの中に閉じ込めたのよ。
 ポケモンフードも、水ポケモンにとっては大切な水も、最低限しか与えなかった。
 ヒナタがそれに気付いたのは、丁度夏休みが半分くらい過ぎたあたりかしら」

7 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/23(金) 20:30:55.16 ID:724v4c1C0
カエデはまるで昔観た映画の内容を話すように言った。

「お昼ご飯が終わった後に、あんたがあたしの袖を引っ張って言ったのよ。
 トサキントはどこにいったの、どうして一緒にご飯食べないの、って。
 あたしは悪びれもせずに答えたわ。
 言うこときかないポケモンは危ないから閉じ込めてるの、ってね。
 そしたらあんた、目の色変えてあたしに突っかかってきてさ。
 あの時は本当にびっくりしたわよ。
 いつもどこかのお姫様みたいに大人しくて、大抵の悪戯にもじっと我慢してたあんたが、
 いきなり、何の準備もしてない時に不意打ちしてきたんだから」

カエデの語りに合わせて、あたしの脳裡にその時の記憶が鮮明に映し出されていく。

「しばらくは無視してたんだけど、あんたはずっとあたしの後ろをついてきて、
 トサキントをボールから出してあげて、って言って何度も何度もお願いしてくるの。
 終いにあたしは怒って、ヒナタを突き飛ばしたわ。
 予想外に、といってもその頃は加減を知らなかったから当然なんだけど、ヒナタは酷く転んじゃってね、
 あたしは、あーあ、またヒナタ泣かせちゃったなあ、面倒臭いなあって、軽く考えてたわけ。
 でもヒナタはすぐに起き上がって、あたしに掴みかかってきたの。
 そして――」

曖昧になっていた言葉の輪郭が浮彫になる。
あたしはカエデに掴みかかりながら、涙混じりの声で怒鳴ったのだった。

「――ポケモンはモノじゃない、生きてるのよ」
「思い出した?」
「ええ」

10 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/23(金) 20:49:55.63 ID:724v4c1C0
「あたしの家もあんたの家も、家族にポケモントレーナーがいて、
 生まれた時から当たり前のようにポケモンと接してきたじゃない?
 でも、ちゃんと物事を考えられるようになって、
 改めてポケモンという生き物を定義しようとしたときに、あたしは間違っちゃったんだと思うわ。
 ポケモンは人間の言うことをよく聞く道具で、もし反抗したら、罰を与えなくちゃならない。そんな風にね。
 その点、ヒナタはあたしと違って、ポケモンがあたしたちと同じように生きていることを、ちゃんと分かってた。
 ヒナタに怒られて、あたしはすぐにトサキントをボールから出して、大きな水槽に入れて、ポケモンフードをたくさん食べさせてあげた。
 もちろん反省したから、って理由もあるけど、一番大きな理由は、
 あたしは多分……ヒナタに許して欲しかったんだと思うな。
 それまで本気でヒナタに怒られたことなかったから、
 喧嘩してもなんだかんだいって仲直りしてたから、怖くなったのね。
 もう……、もう、ヒナタに愛想尽かされたんじゃないか、って……」

声が震え、

「でもヒナタは許してくれたわ」

持ち直す。

「そりゃもう呆気なくね。ヒナタは次の日にはそのことを忘れたように笑ってた。実際、忘れてたんでしょうね。
 けど、あたしにとってその出来事と、ヒナタの台詞は、忘れられない思い出になったの」

12 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/23(金) 21:11:38.39 ID:724v4c1C0
カエデが口を閉ざす。
壁時計の秒針の音が束の間の沈黙を満たす。
処置室の扉は依然として開く気配がなかった。

「だから、ヒナタがゲンガーをボールに閉じ込めるって言ったとき、あたしはあんたの言葉が信じられなかった。
 もちろん、トサキントとゲンガーじゃ危険度がまるで違うし、
 現実的に考えればそれが一番の安全策なんだろうけど、あたしの心の中に住んでた小さいヒナタが許してくれなかった。
 気付いたらあたしはあんたを責めてたわ。小さなヒナタの言葉を受け売りにしてね」

――ポケモンはモノじゃない、生きてるのよ。
サイクリングロードでカエデにそう言われたとき、激しい苛立ちを感じた。
それは今から思えば、内から外への怒りではなく、内から内への怒りだったのかもしれない。
あたしの中にあった小さな頃の記憶が、ゲンガーを閉じ込めようとしたあたしを非難していたのだ。



20 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/23(金) 21:43:01.85 ID:724v4c1C0
「あたしさ、その後すっごく後悔したのよ。 
 ヒナタはごく自然にそうしているつもりだったのかもしんないけどね、
 あんたに微妙に距離を置かれてることは、結構早くから気付いてたんだから。
 あたしは何度もあんたに謝ろうとしたわ。
 けど、くだらない意地の所為でなかなか謝れなくて、
 結局、そのうち元通りになるんじゃないかしら、とか都合のいい結論出して、考えることをやめたの。
 バカよね。あたしもヒナタも、もう次の日になったら嫌なこと全部忘れてるような小さい子供じゃないのに」

カエデが謝ることはないの。
悪いのはゲンガーを深く考えずに閉じ込めて、
自分を責めるカエデを遠ざけたあたしなの。
そう言おうとして口を開いても、矢継ぎ早に、まるで堰を切ったように話すカエデの間に入ることができない。

「あの子たちがあたしのところにやってきて、ヒナタが一人でサファリパークに行ったことを教えてくれたとき、
 あたしは、その、なんていうか、本気であんたに見捨てられたんじゃないかって、怖くなったの。
 もうヒナタは、あたしのことを仲間だと思っていないんじゃないかな、って思ったら、泣きそうなくらい悲しくなったの」

泣きそうなくらい、と言いながらカエデは泣いていた。
黙ってハンカチを取り出し、涙を拭ってあげる。

「ねえ、もしあたしがヒナタと喧嘩してなかったら、
 ヒナタはサファリパークに行く前にあたしに声を掛けてくれて、
 二人で一緒にアヤと戦えたんじゃないかしら。
 そしたらヒナタがゲンガーを出さなくちゃならなくなったり、ヒナタのポケモンが重態になることもなかったんじゃないかしら――」
「もういいの。そんなこと言わないで」

24 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/23(金) 22:05:16.98 ID:724v4c1C0
あたしはカエデの手を握った。
その手は夜気の所為か、驚くほど冷たかった。
あたしは言った。

「あたしが一人でサファリパークに行ったのは、カエデが嫌いになったからじゃない。
 あたしは焦ってたの。アヤの気配を感じて、それが消えてしまわないうちに、アヤに追いつきたかっただけなの。
 だからカエデが責任を感じることなんて何一つないのよ。
 カエデがサイクリングロードで言った言葉の意味だって、結局はあたしの受け取り方次第でどうとでも変っていたわ。
 あの時、あたしはカエデが何も考えずにあたしを責めているんだって、勝手に思いこんで、怒っていた。
 それからウツギ博士のお話を聞いて、ピカチュウを探す手がかりが失われたと知った時も、
 カエデの冷静な意見に耳を傾けることが出来なかった。聞き分けのない子供みたいに。
 ねえカエデ、あたしは本当は、今日でピカチュウを探すことを、きっぱり諦めるつもりだったの。
 でも、無理だったわ。アヤの存在を、ピカチュウに繋がる手がかりを感じ取った瞬間に、
 決意はあっさり消えて、いつの間にかあたしは駆けだしてた。
 その時にカエデに声をかけていたら、カエデの言うとおり、結果は変わっていたかもしれない。
 でも、そうしなかった責任はあたしにあるの。カエデは全然悪くない」

28 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/23(金) 22:22:30.80 ID:724v4c1C0
「ヒナタ……」

カエデはおもむろにあたしの手を押しやると、

「謝るつもりが逆に慰められるなんて、情けないわね、あたし」

両手で乱暴に目を擦った。そして恐る恐る聞いてきた。

「ヒナタはもう怒ってないの?」
「怒ってないわ。ねえカエデ、あたし思うんだけど、
 この喧嘩は多分、どっちが悪いとか正しいとか、そういうのがなかったのよ」
「大人ね?」
「少なくとも子供じゃないわ」
「いつからそんな生意気なこと言うようになったのよ」

カエデがぎこちなく笑う。あたしも笑い返そうとしたけど、なかなか上手く表情が作れなくて苦労した。
それでもこの薄暗い廊下の雰囲気がずっと温かく親密なものになったことは、肌で感じ取ることができた。
カエデも同じように感じているという確信があった。
処置室の扉が開け放たれたのは、ちょうどそんな折だった。

「ヒナタ!」
「うん!」

出てきたジョーイさんに詰め寄り、

「あたしのポケモンは助かったんですか?」

44 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/23(金) 23:45:22.92 ID:724v4c1C0
「はい」

とジョーイさんは、困憊の表情に微笑みを浮かべて言った。

「今は四匹とも安定していますよ。予断を許さない状況に違いはありませんが」
「ありがとう、ございます」

肩の力が抜ける。張り詰めていた緊張の糸が緩む。
隣で喜ぶカエデの姿を見て、あたしはようやく、
今の今まで想像していた最悪のイメージを払拭することができた。

「良かった……助かって、本当に良かった」

それからジョーイさんは、長時間の治療で疲れているのにも関わらず、
ポケモンのそれぞれの容態を細かく教えてくれた。


52 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/24(土) 00:10:14.70 ID:C4vRUMso0
「ピッピの火傷は広範囲に渡っていましたが、
 深度はそれほどのものではありませんでした。
 数日中には元気な姿に戻っていると思います。
 スターミーはコアに損傷が見られましたが、
 医師は"自己再生"と生まれ持っての高い自然治癒力で、十分に治ると判断しました。
 ヒトデマンやスターミーのコアは他の多くのポケモンと違い露出していて弱点と見受けられがちですが、
 余程強い衝撃を受けて完全に砕けない限り、回復は可能です。
 しかし、ラッキーとゲンガーについては、肉体面、精神面の両方で、快復後の障害を想定しておくべきかもしれませんね。
 ラッキーはピッピよりも広範囲かつ深い火傷を負っていました。
 癒えるには時間がかかりますし、深達性U度からは傷痕が残りやすくなり、その部位の感覚麻痺も有り得ます。
 また、これはラッキーがダメージを受けた状況を聞いていないので断定はできませんが、
 他のポケモンから威嚇されたり、攻撃を受けたりすることを極度に怖れるようになる可能性があります。
 特に炎タイプのポケモンに対しては、異常な警戒心と恐怖心が芽生えるかもしれません」

そして最後にゲンガーですが、とジョーイさんは歯切れ悪く続けた。

56 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/24(土) 00:33:34.67 ID:C4vRUMso0
「検査の結果、ゲンガーの核は鋭利な刃物のようなもので、綺麗に貫かれていることが分かりました。
 その時点で医師を含めた医療班は治療を諦めかけました。
 ゴーストポケモンには核が存在し、それが修復不可能なまでに損傷すると、実体が保てなくなるのです」

太陽の光で溶けていく雪だるまを想像してみてください、とジョーイさんは分かり易い比喩を使った。
それは傷ついたゲンガーが周囲の闇に同化していく時に感じた、
氷がグラスの中の水に溶けて見分けがつかなくなる感じとよく似ているように思えた。

「しかし驚くべきことに、ゲンガーは分解寸前の身体を維持していました。
 精密検査の結果に判明したことですが、ゲンガーは核を二つ持っており、破壊されたのは片方だけでした。
 これは通常では絶対にありえないことです。
 核とはつまり、ゴーストタイプのポケモンにおける人格や情思を司っている、人間で言えば脳のようなものです。
 これまでゲンガーがどのようにしてそれら二つの核を統括し、制御してきたのかはもう知ることができませんが、
 とにかく、ゲンガーは核を一つ失ったことで、一般的なゲンガーに近づいたと言えます」

71 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/24(土) 00:57:32.16 ID:C4vRUMso0
不思議そうに語るジョーイさんを余所に、あたしは全てを理解していた。
多分、片方の核にはゲンガーの前世の記憶が内包されていた。
もしかしたら、その核が前世の記憶そのものだったのかもしれない。
でもいずれにせよ、ゲンガーは自分が死ぬかもしれないというリスクを冒して、前世との因縁を"断ち切った"。
本当は殺したくない『自分』のために。
瀕死で横たわる『キュウコン』のために。
傍らでただ泣いていただけの『あたし』のために。

「核の損傷を除いて、ゲンガーの受けた傷はどれくらいのものだったんですか」

訊きながらあたしは、ゲンガーの胸から噴き出したどす黒い血潮のことを思い出していた。

「創傷は既に塞がっていますよ」

とジョーイさんは答えた。

「ゴーストタイプのポケモンは元々、物理的な攻撃を透過し、無力化します。
 また彼らが視覚的に受けたダメージの程度と、実質的なダメージの程度は必ずしも等しいとは言えません。
 ゲンガーは意図的に物理攻撃を通すようにし、なんらかの理由で自傷したのち、迅速にその傷を治癒しました。
 いえ、治癒というよりは"なかったこと"にしたと言った方が適切かもしれませんね」

80 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/24(土) 01:11:22.12 ID:C4vRUMso0
懸念すべきは精神的な後遺症です、とジョーイさんは深刻な顔で続けた。
俄に、不吉な予感が去来する。
ラッキーの『他のポケモンを怖れるようになる』くらいの後遺症ならいいんだけど。

「ゲンガーは覚醒してからというもの、ずっと奇妙な声で鳴いているんです。
 私はこれまでにも何体かのゴーストポケモンを看てきましたが、あんな声で鳴くゲンガーは初めてでした。
 ポケモン医療に長く携わっている院長も、こんな症例は初見だと困惑していて――」

あたしはカエデに目配せする。

"ねえカエデ、その鳴き声って……"

カエデは笑いを堪えるように顔を伏せながら目配せを返してきた。

"十中八九、アレよね"

あたしは言った。

「ジョーイさん、ゲンガーの奇妙な鳴き声って、どんな感じの声だったんですか?」

ジョーイさんは「えーっとね……」と躊躇する素振りをみせ、
辺りを見渡して他に誰も聞いていないことを確認してから、僅かに頬を赤らめて鳴き真似をしてくれた。

「うー、うー」

10 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/24(土) 17:26:18.65 ID:C4vRUMso0
翌朝。
朝食をとるためにカエデと連れだって部屋を出たところで、
あたしは眠そうに欠伸をしているタイチを発見した。

「ふぁーあっ……よう、二人とも。遅かったじゃねえか」

ふにゃふにゃの顔はそのままに声をかけてくる。
服装もだらしない。

「おはよう」

わざわざこんなところで待ち伏せしてたの?
あたしたちの部屋のドアをノックすれば良かったのに――と続ける間もなく、

「おーはーよーっ」

カエデが"ごく自然"な動作であたしとタイチの間に身体を割り込ませる。

「あたし思ったんだけど、タイチくんまだ疲れてるんじゃないの?
 長旅を終えたその足でヒナタを助けに行ったんだし……、
 あっ、あたし食堂から食事とってきてあげよっか?」
「いいっていいって。
 食事ついでに雑談するのが目的だったんだよ。
 さ、早いとこ三人で食堂行こうぜ」

13 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/24(土) 17:50:52.23 ID:C4vRUMso0
食堂はがらがらに空いていた。
ルームナンバーに対応したテーブルには、質素な食事が人数分用意されていて、
タイチは自分のテーブルから盆を取り上げ、あたしたちのテーブルに移動してきた。
タイチの隣には当然のようにカエデが座った。
別に構わないけどね。

「いい具合に空いてるな。
 ま、混む時間帯はとっくに過ぎてるから当然か」
「あたしは早起きしたんだけどー、ヒナタが中々起きなくてー、
 廊下なんかで待たせちゃってごめんね?」

あたしは無言で頬を膨らませる。
何が「ヒナタが中々起きなくて」、よ。自分だってあたしと同じくらい寝坊した癖に。
ジョーイさんと別れる頃には深夜になっていて、
ポケモンの命が助かったことに安心したあたしは、部屋に着いてベッドに横になった途端に眠りに引き込まれたのだった。
夢も見ないくらいに深い眠りだった。
タイチは言った。

「そのことは気にすんなって。
 俺は静かに飯食う方が好きだし、会話が周りに漏れるのはできるだけ避けたかったからな」

あたしは静かに合掌する。

「いただきます」
「ヒナタ、なんか怒ってる?」
「あの子、寝起きはいつもあんな感じなの」

さらりと嘘を吐くカエデ。
昨夜、処置室前の廊下で仲直りしてからというもの、
カエデの性格は反動を得て復活していた。

17 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/24(土) 18:14:44.95 ID:C4vRUMso0
「そ、そういえば朝イチでジョーイさんに教えてもらったんだけど、
 ポケモンはみんな快復するみたいだな?」
「うん」

自然と頬が緩む。
また元気なあの子たちと旅ができる。
そう思うだけで、冷たくなったご飯が美味しく感じられた。

「そういえばジョーイさん、こんなことも言ってたぜ。
 四体のポケモンのうち、ゲンガーだけが変な鳴き声を出すようになって、周りを困らせてるって……」

あたしが反射的に答え、

「ああ、それはそれでいいの。普通なの」

カエデが後に続く。

「その変な鳴き声が、あのゲンガーのアイデンティティみたいなものなのよ。
 タイチくんはゲンガーの鳴き声、聞いたことある? まだ無かったわよね?」
「ああ」
「その鳴き声は、最初に聞いたときはなんかすっごい間抜けで、
 全然ゴーストタイプのポケモンらしくないの。
 でも慣れるとその声が心地よくなってきて、ちょっと可愛く聞こえるようになるの」
「なあ、いったいヒナタはどこでそんな不思議なゲンガーを手に入れたんだ?」

まさかゴースから育て上げたのか、とタイチが魚の骨をとりわけながら訊いてくる。
あたしは水を一口飲んでから言った。

「また時間がたくさんある時に話すわ。
 あたしだって、タイチが三ヶ月以上もどこで何してたのか知りたいけど、今聞いても中途半端になっちゃうでしょ?」

23 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/24(土) 18:37:08.60 ID:C4vRUMso0
「それもそうだな。雑談ついでじゃ尺に余るもんな」

タイチが頷く。それからの話題はほとんどカエデの『ミニリュウ』に独占された。
カエデの話の中でミニリュウはカエデの手によって捕まえられたことになっていて、
タイチはちっともその話を疑わずに感心の相槌を打っていた。
あたしは終始黙々とご飯を口に運んだ。
――ほんとにバカなんだから。肝心なところでは頭が切れるくせに。

「ごちそうさま」

食器を返却しようと立ち上がった、その時だった。
食堂の入り口でキョロキョロと何かを、あるいは誰かを探している風にしていたリュウジと視線が合う。

29 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/24(土) 19:04:25.18 ID:C4vRUMso0
「ヒナタさん! こんなところにいたんですね」

どうやらその探し人はあたしだったみたいね。

「誰だあいつ?」
「えっと、その」

一瞬上手く説明できなかったあたしの代わりにカエデが答えてくれた。

「リュウジくん。二ビシティジムリーダー、タケシの息子さん」

リュウジはテーブルの近くにやってくると、ホッとしたような笑顔になって、

「心配してたんですよ。昨日の夜に部屋を訪ねたら返事がなくて、
 今朝になっても帰ってきていなかったらどうしようかと思っていたところです。
 お別れの挨拶もなしに修行の旅に出るのは嫌でしたからね――」

カエデの隣に視線を移し、硬直した。
タイチが首を傾げ「なんだよ俺の顔に何かついてんのか」という表情になる。

「リュウジ?」
「…………」
「ねえ、タイチがどうかしたの?」
「…………」

カエデが茶化す。

「まるで彫刻みたいね」

しかし小刻みに震える両肩が、リュウジが彫像になったわけではないことを証明していた。

32 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/24(土) 19:23:04.42 ID:C4vRUMso0
「どうして……」

不意に、お父さん譲りの細い目がカッと見開かれる。
リュウジが吠えたのはその直後だった。

「どうしてお前がヒナタさんたちと朝ご飯食べてるんだぁあぁぁあぁぁ!!!!」
「ちょ、ちょっとリュウジくん!?」
「落ち着いて、リュウジ!」
「おっ、おお、落ち着けるわけがないじゃないですか!
 ヒナタさんには話したことがあるでしょう!?
 僕がジムリーダー代理を務めていた時に、僕が小さな頃から育てたイワークを必要以上にボロボロにして、
 その上僕よりも前に戦った雇いのトレーナーの方が強かったと捨て台詞を残していった、最低のトレーナーのこと。
 それがこいつなんです!」

唇を戦慄かせるリュウジを宥めながら記憶を辿る。
二ビシティのポケモンセンターで、リュウジが直々に謝りにきてくれた時のことを思い出す。
リュウジが暴走させたイワークは、実はタケシさんの私物だった。
ジムリーダー代理を任された当初は自分のイワークを使っていたが、
ある時、一人のトレーナーにそのイワークとプライドを大きく傷つけられて、
以来、ジムの人間にも秘密で、タケシさんのイワークを使うようになった。
そしてそのトレーナーというのが、あの時は知る由も無かったけれど、タイチのことを指していたのだ。


38 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/24(土) 19:45:22.33 ID:C4vRUMso0
「い、意味わかんないんですけどー……」

事情を知らないカエデが、タイチとリュウジを交互に見つめる。
リュウジは呼吸も荒くタイチを睨み付けている。
食堂にまばらに残っていた人もいつの間にかいなくなっている。
どうやってこの場を収めればいいんだろう。
頭を抱えたくなったその時、

「まあ座れよ」

タイチは旧知の友人に語りかけるような穏やかな調子で、リュウジに椅子を勧めた。

「とりあえず座りましょ?」

あたしが返却しようとしていた食器をテーブルに下ろして座ると、
リュウジも憮然とした面持ちで席に着いた。

「やっとお前のことを思い出せた。正直、カエデに言われてもあまりピンと来なかったんだ。
 俺の脳みそはあんまりデキがよくねーから、どうでもいいことは古い順から忘れていくようになってるのさ」
「どうでもいい、だって?」

テーブルの下のリュウジの手が、かたく握りしめられる。

「ちょっと、挑発するようなことを言うのはやめて!」
「ヒナタは黙っててくれ。俺は別に挑発してるワケじゃない。
 ただ、それだけこいつとの戦いは印象に残っていなかったって言いたいんだよ。
 俺が二ビシティジムのことで覚えてたのは、タケシと戦えなくて残念だったことくらいだな。
 どうやって代理リーダーのポケモンを倒したか、
 倒した後にどんな台詞を吐いたかなんて、お前には悪いけどもう完璧に忘れちまってる」

50 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/24(土) 20:24:20.64 ID:C4vRUMso0
「お前が忘れても僕は忘れないぞ!」
「結構。俺がお前のポケモンとプライドを酷く傷つけたとお前が言うなら、
 それはきっとその通りなんだろうよ。別にそれを否定したりはしないさ。
 でもよ……」

タイチがそれまで伏せていた顔を上げる。視線が交錯する。

「だからなんだってんだ?」
「ひ、開きなおるつもりか?」
「あのなあ、お前はふたつ、根本的に勘違いしてるんだよ。
 まず一つ目に、俺に嗜虐趣味はない。
 ポケモンバトルで理由もなく過剰攻撃することは絶対にない。誓ってもいい。
 だからイワークが必要以上に攻撃されたとお前が言い張るのはお前の勝手だが、
 俺にとってはその攻撃は必要な攻撃だったってことだ。
 その時、何を考えてマグマラシに指示を出したのかは今となっては分かんねーけどな。
 そして二つ目に、俺はどうでもいい嘘は吐かない。
 お前より雇いのトレーナーの方が強かった、だっけか?
 その台詞は事実だろ。もし代理リーダーであるお前がジムの中で一番強いと判断したら、俺はそんなこと言わねえよ。
 ジムリーダーの絶対条件は知ってるよな。
 ジムで使用するレベルが制限されたポケモンは関係なしに、
 私物のポケモンを使ったポケモンバトルで、ジムに存在する全てのポケモントレーナーより強いことだ。
 なあリュウジ、お前は本当に全ての雇いのトレーナーよりも強かったのか?」

55 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/24(土) 20:54:53.93 ID:C4vRUMso0
リュウジは答えない。答えることができない。
タケシさん不在のジムにおいて、リュウジと雇いのトレーナーのどちらがジムリーダー代理に適任だったのかは、
おそらくリュウジが一番よく理解している。
それにこれは余計かもしれねーけど、とタイチは腕を組んで言った。

「お前さ、そんなこといちいち根に持ってたら、ポケモントレーナーやっていけないと思うぞ。
 俺も親父がジムリーダーで――つっても俺が生まれた時からジムリーダーやってたわけじゃねえけど――、ガキの頃はよく稽古つけてもらったんだよ。
 ほとんど毎日な。でも、俺は今まで生きてきて、一度も親父に勝ったことがない。
 子供相手に手加減しない、ほんと意地悪な親父でさ。
 それで俺のポケモンをコテンパンにした後で言うんだよ、俺がガキの頃は今のお前よりずっと強かったってな。
 俺は半泣きで再挑戦する。負けてバカにされる。もう一度だけ戦ってくれと頼む。また負けて今度はもっとバカにされる。
 その繰り返しだった。その時は、なんでこんな性格悪い親父が俺の親父なんだろうって思ったもんだけど、
 後から考えてみれば、俺はそのおかげで、今こうしてポケモントレーナーやれてるんだと思うよ。
 お前はもう十分強い、なんて言わたら、俺なんか絶対調子乗って練習やめてたと思うね」

タイチとシゲル叔父さまに抱いていた、過去のイメージが崩れていく。
タイチには生まれつきポケモンバトルのセンスがあるのだと思っていた。
シゲル叔父さまはタイチにとって、時に誉め、時に叱る、優しい師のような存在なのだと思っていた。

75 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/24(土) 22:15:10.81 ID:C4vRUMso0
リュウジはいつの間にかタイチを睨むのをやめて、
テーブルの真ん中に並んだ醤油の小瓶に視線を落としていた。

「僕が甘かった……そう言いたいんですか」
「端的に言えばそうなるな」

あたしは気まずい空気に耐えかねて、口を挟むことにした。

「ねえタイチ、もうその辺でいいでしょう?
 リュウジも、こんな言い方が適当かどうか分からないけど、タイチのことを許してあげて欲しいの」
「本当は、心のどこかで分かってたんです。
 僕の言っていることは、負け惜しみと同じだって」

リュウジは自嘲気味に笑った。
でも表情はちっとも笑えていなかった。

「こうやって、自分のプライドを傷つけた相手を目の前にして怒鳴ってみても、その続きが思いつかないんです。
 挙げ句の果てに、逆に諭されて……ああ、なんかホントにダメだな、僕……」

77 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/24(土) 22:39:11.13 ID:C4vRUMso0
出し抜けにカエデが言った。

「あたし不思議なんだけどさあ。
 どうしてリュウジくんはポケモンバトルで見返してやろう、って思わないわけ?」
「それは……僕がまだポケモントレーナーとして未熟だから……」
「それを言うなら、ここにいる全員が、ポケモントレーナーとして未熟だと思うけど?」

あたしもその意見に賛成する。

「そうよ、タイチは調子に乗りやすいから、リュウジが頑張ればすぐに追いつけるわよ。
 そしてリュウジが追い越したと思ったその時に、
 ジムリーダー代理とか、そういう肩書きは関係なく、
 一人のポケモントレーナーとしてポケモンバトルを挑めばいいじゃない。
 タイチだってきっと断らないわ」

あからさまに面倒臭そうな顔をするタイチに、

「ね?」

と釘を刺す。

「俺は別にかまわねーけどさ。リュウジはそれで納得すんのか?」

リュウジは力強く頷くと、それまでの弱気を断ちきるようにタイチを真正面から見つめて言った。

「僕はいつかあんたに挑戦する。だからその時は………よろしくお願いします」


80 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/24(土) 22:52:45.39 ID:C4vRUMso0
「お、おう」

突然の敬語に戸惑うタイチ。
少し空気が和んだところでカエデが言った。

「ヒナタ、ポケモンの様子を見に行かない?
 きっともう面会可能になってると思うわ」
「うん、そうしましょ」
「タイチくんやリュウジくんはどうする?
 ここで一度解散する? それとも一緒に来る?」

タイチとリュウジは一瞬顔を見合わせて、

「俺はやめとく」「僕は遠慮しておきます」

と同時に言い、一拍おいて、

「昼過ぎに二人の部屋に行くよ」「お昼過ぎに二人の部屋にお邪魔させてもらいます」

とまたしても同時に言葉を重ねた。無言で啀み合う。
もしかしたらこの二人は結構気が合うのかもしれない、とあたしは思う。

89 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/24(土) 23:27:15.71 ID:C4vRUMso0
病棟に赴いて簡単な手続きを済ませ、
お昼前に部屋に戻ってきたあたしのベルトには、三つのボールが収まっていた。
カエデと一緒にソファに腰掛け、一つ目のボールのボタンを押す。
閃光。

「ぴぃっ」

ボールの中から飛び出してきたピンク色のボール――じゃなくてピッピは、
身体の所々に包帯を巻かれてはいるものの、もうすっかり元気になっていた。
胸に飛びついてきたのを、そのまま抱き留める。
一頻りピッピの温かみと柔らかみを味わってから、二つ目のボールのボタンを押す。
閃光。
スターミーが五芒星の身体をくるくると回転させて、動くのに支障がないことをアピールする。
コアが明滅する度に、赤い宝石のような結晶にうっすらと残った罅の痕が、光を乱反射する。
あたしはその部分に触れてみる。表面は滑らかに修復されていた。

「なんて凄い回復力なのかしら……」

スターミーを撫でながら、三つ目のボールのボタンを押す。
閃光。現れた影の塊は、アヤとの戦いを経て、前世との繋がりを断って、いくらか痩せてしまったように見えた。
それでもでっぷりとしたお腹は健在で、ピッピは自分を受け止めてくれると信じて、そこに飛び込んでいく。

「うー」

ヘンテコな鳴き声が響く。優しい赤色を湛えた瞳があたしを映す。
あたしは何も言わずに、ピッピごとゲンガーを抱きしめた。
ひんやりと冷たいはずの身体は、何故かとても温かかく感じられた。

14 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/25(日) 20:18:10.92 ID:ww0iq9lr0
「ありがとう」と「ごめんなさい」、どちらを先に言うべきなんだろう。
優先順位をつけ倦ねているうちに、目頭が熱くなってくる。

「うーう」

ゲンガーは優しく抱擁を解くと、
まるで何度も練習したみたいに自然な動作で跪き、頭を垂れた。
ポケモンタワーで見たキクコお婆さんのゲンガーと、目の前のゲンガーが重なる。
それは疑いようもなく、主への忠誠を示す仕草だった。
もう暴走したりしない。
そんな声が聞こえた気がした。

「ゲンガー……」

どこまで優しいのよ。
あたしはあなたに酷い仕打ちをして、結局何も出来ずに、ただ泣いていただけなのに。
あなたにとっては、最低のトレーナーのはずなのに。言葉に詰まる。
やがて構ってもらえないことに立腹したピッピが、
ゲンガーの頭に乗って耳を引っ張り始め、あたしはゲンガーに返事をする機会を逸してしまった。

16 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/25(日) 20:44:15.06 ID:ww0iq9lr0
「もうっ、ピッピったら!」
「いいじゃないの。きっとうーうーだって、ヒナタの気持ち分かってるわよ。
 わざわざ口に出して言わなくてもね」

カエデが、あんたもあのお腹で遊んできなさい、とワニノコを嗾ける。
ゲンガーはそれを満面の笑顔で受け止める。

「それにしても不思議よねー。
 初めて見たときはどこの変質者かと思うくらいに不気味な笑顔だと思ったのに、、
 今見たらすっごく感じのいい笑顔に見えるんだもの」
「誤解だったのよ、きっと」
「誤解?」
「ゲンガーは最初からこんな感じの笑顔だったのよ。
 でもあたしたちの変な思い込みが、それにフィルターをかけてたんだと思うわ」
「見方が変われば印象も変わる、か。
 ま、当然っていったら当然だけど、
 それとは関係なく、目の光とか柔らかくなったと思わない?」
「言われてみれば……」

ルビーの原石を思わせる濁った赤の瞳は、いつしか研磨されたルビーのように、澄んだ光を放っていた。

「あたしが推理するに、前世の凶暴な記憶が消えたことによって、
 同時にうーうーの性格も純化されたんじゃないかしら。
 もちろん根っこのところは変わってないんだけど、
 もうその衝動と戦う必要がなくなって、うーうーにも余裕ができたっていうか、」
「ねえ、カエデ。確か前にも聞いたと思うんだけど、
 なんでゲンガーのこと、うーうーって呼ぶの?」

18 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/25(日) 20:56:01.64 ID:ww0iq9lr0
「だって分かりやすいじゃん。ね、うーうー?」
「うー?」

ゲンガーが太い首を傾げ、カエデを見つめ返す。
あたしは心の端っこに芽を出した、正体不明の苛立ちに戸惑っていた。
確かに『うーうー』というあだ名は何もおかしくない。普通だわ。
でも何故かしら、カエデがそれを口にして、ゲンガーが反応する度に、
まち針で刺されたくらいの痛みが胸に広がるのよね。
あたしが黙りこくっていると、カエデは何かに気付いたように素早く瞬きを繰り返し、
下からあたしの顔を覗き込んできた。

「分かった。ヒナタ、あたしがうーうーをあだ名で呼ぶの、ヤなんでしょ?
 自分よりカエデとゲンガーが仲良くなったらどうしよう、とか思ってない?」
「そ、そんなこと、」

否定できない。あたしは本当に、そんなくだらないことで苛立っているのかしら。
自分で自分が分からない。カエデはとても単純明快な解決案を提示してくれえた。

「ヒナタも呼んでみたら? うーうーって。
 きっとうーうーもあだ名で呼ばれて、悪い気はしないと思うけど?」

25 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/25(日) 21:13:22.12 ID:ww0iq9lr0
「うっ?」

ゲンガーがぴたりと動きを止める。
そして何かを期待するような視線を、ちらちらとあたしに寄せてくる。
何故かピッピとワニノコもはしゃぐのをやめて、部屋はしんとした空気に包まれる。
うーうー。
そう一言口にするだけでいいのに、
どこからともなく湧き出てきた気恥ずかしさが邪魔をする。

「さあさあ」
「もう、急かさないでよ。
 それじゃあ、えっと……」

ゲンガーはまるでお見合いしているみたいにカチコチになっていた。
ポケモンの世界にお見合いがあるのかどうかは知らないけど。
あたしは言った。

「う、」

否、言おうとした。
けたたましいノックの音の後に、タイチの大きな声がドア越しに響いてくる。

「よーっす。二人ともいるか?
 俺だよ、タイチだ。
 ついでにリュウジも一緒だぜ。
 昼過ぎってアバウトな時間設定だったのに、偶然ぴったり合っちまってさ」

37 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/25(日) 21:43:57.77 ID:ww0iq9lr0
――――――
――――
――

「あれ、おかしいな。
 俺は確かゲンガーは心地よい鳴き声を出すって聞いてたんだが。
 まあ奇妙なのは奇妙だけどさ、
 なんか泣いてるみたいに聞こえねえか?」
「タイチくん、それはね、」
「何も言わないで、カエデ。
 これでタイチの空気の読めなさ加減がはっきりしたわ」

あたしは溜息を吐いて、部屋の隅を眺める。
そこではゲンガーが「ううううう」と哀愁漂う声で鳴いていた。
あたしが「うーうー」と呼んであげればすむ話なのかもしれないけど、
何故かあのタイミングを逃してしまってからは、
気恥ずかしさがそれまで以上に激しく邪魔をして、出来なかった。
リュウジが恐る恐るといった風に言う。

「ヒナタさん、なんか顔が怖いです……」
「そ、そうだよヒナタ。笑えよ」

笑えるわけないじゃない。
あたしは何か言う代わりに、重い溜息を吐いた。
タイチ全面擁護派のカエデが助け船を出す。

「そろそろ建設的な話をしましょう」

45 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/25(日) 22:12:32.91 ID:ww0iq9lr0
「俺は、俺がいなかった間に何があったのか知りたい。
 あと昨日の夜にヒナタがどうやってアヤと遭遇したのかも聞かせてくれ。
 俺は途中参加だったからな」

とタイチが言い、小さな声でリュウジが続いた。

「僕は……僕はヒナタさんやカエデさんが、昨日の夜に何をしていたのか知りたいだけです。
 あの、もしかしたら僕、邪魔ですか?
 ヒナタさんやカエデさんはこいつ……じゃなくてタイチさんと知り合いみたいですし、
 なんだか色々と事情があるみたいだし……」
「気にしなくていいのよ。
 でもその代わり、今から話すことを無闇に人に話したりしないで欲しいの。約束してくれる?」

はい、とリュウジが安堵したように頷く。
あたしは紅茶を一口飲んで喉を潤してから、
タイチが不在の間の出来事を、かいつまんで話した。
シオンタウンでキクコお婆さんと出会ったこと。
ゲンガーに一旦は襲われそうになったものの、お婆さんの仲介によって、あたしのポケモンにできたこと。
タマムシシティでエリカさんに挑んだこと。
勝利してバッジは手に入れたものの、試合の最後でゲンガーが暴走してしまったこと。
ピカチュウを探す援助に、エリカさんからウツギ博士への手紙を賜ったこと。
ヒトデマンが進化の石によってスターミーに進化したこと。
セキチクのポケモン協会本部にて、ウツギ博士にピカチュウの端緒を断たれてしまったこと。
そこからは描写を密にして、サファリパークでアヤと対峙するまでの経緯を語った。
サファリパークを一望できる丘で、キュウコンの鳴き声が聞こえたような気がしたこと。
園内に広がる夕闇の中に、炎タイプの技の残滓がわずかに見て取れたこと。
知り合いの女の子二人の手を借りて園内に侵入したこと。
火傷を負った野生ポケモンが、まるでアヤの通り道を示すように倒れていたこと。
そしてそれを辿っていくうちに、十数体のポケモンに包囲されたアヤを見つけたこと――。

51 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/25(日) 22:37:37.93 ID:ww0iq9lr0
「今から思い返すと、ほんっと、色々あったわねー。
 ヒナタ、落ち着いたら自叙伝書いてみなさいよ。絶対売れるわ」
「嫌よ。あたしの記憶を本にするなんて。
 それにどうせカエデのことだから、印税のうちの何割かは自分のものにする気なんでしょ?」
「あら、分かってるじゃない」

出し抜けにリュウジが呟く。

「なんだかカエデさんとヒナタさんって、従姉妹っていうよりも姉妹みたいですね」
「だってさ、ヒナタ」
「姉妹、ねえ」

あたしとカエデは同時に答える。偶然にも台詞まで一緒に。

「別に悪い気はしないわ」

顔を見合わせて笑う。つい半年前には想像もしていなかった。
会う度に険悪な雰囲気になっていたカエデと、こんなに仲良くなれるなんて。
タイチはそれまでの思案していたような相好を崩すと、

「オーケー、大体のところは掴めたよ。
 それからヒナタはアヤに追いついてポケモンバトルを持ちかけ、
 少し遅れて、俺が二人を発見した」
「その通りよ」

あたしがタイチに奇跡的なタイミングで救ってもらったことは、
カエデに教えると面倒なことになりそうなので割愛する。

「でも、ヒナタの話には不思議なトコがいくつかあるよな」

52 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/25(日) 22:45:01.23 ID:ww0iq9lr0
「どうしてアヤが閉鎖中のサファリにいたのか。
 園内の野生ポケモンを無差別に攻撃していたのか。謎だ」

カエデが腕を組み、唸る。まるで推理ドラマの探偵役みたいに。

「確かにピカチュウの拉致に関わってるアヤが自分から姿を見せてくれたのは幸運だったと言えるけど、
 何の理由と目的があってセキチクのサファリパークにいたのか、まったく解らないわ」

73 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/26(月) 00:30:43.76 ID:Nufx7+zt0
「あのう……」

とリュウジが遠慮がちに口を開く。

「どうしたの?」
「ヒナタさんはそのアヤという人を追っていくうちに、
 最終的にエリア1とエリア2の境界に着いたんですよね?」
「そうよ。アヤを追っていくうちに、というよりは、
 アヤに攻撃された野生ポケモンを辿っていくうちに、だけどね」
「これは僕の想像で、ヒナタさんもカエデさんもタイチさんも、
 とっくに思いついてることなのかもしれないけど、
 もしかしたらそのアヤという人は、
 野生ポケモンをエリア移動させたかったんじゃないかな」

カエデはすぐさま反論した。

「でも、リュウジくんのお父さんは言ってたじゃない。
 ポケモンを無理矢理に移動させるのは難しいって。
 サファリの膨大な数の野生ポケモンを、アヤ一人でどうこうするのは流石に無理だわ」

あたしは言った。

「ううん、無理じゃない」
「どうしてよ?」
「中途半端に追い立てれば、野生ポケモンだってすぐにまた元の場所に戻ろうとする。
 でも、実際にアヤによって攻撃された野生ポケモンを目の当たりにして、分かったの。
 あのポケモンたちはアヤを、人間を、怖れるようになるって。
 多分アヤがサファリパークに訪れたのは、昨日の夜が初めてじゃないと思うわ。
 継続的にエリア1のポケモンを駆逐していたと考えても、おかしくない」

77 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/26(月) 00:52:44.82 ID:Nufx7+zt0
タイチは昨夜の戦闘を思い出すように目を細めて、

「 多勢に無勢が有効なのは、そこに圧倒的なレベル差がない時だけだ。
 ハイステータスのキュウコンに、キュウコンよりもレベルの高いヘルガー、最後に離脱用のオニドリルとくれば、
 サファリパークの野生ポケモンじゃ、たとえ束になっても歯が立たなかっただろうな」

カエデは言った。

「で、でも、もし仮にアヤがそのやり方で野生ポケモンをエリア2に追い立てようとしていたのだとしても、
 まさかボランティアってわけじゃないでしょう。誰か、アヤにそうするよう命じた人間がいるはずだわ」
「サファリ管理局の人間……はありえないわよね。
 長期的に誘導するよりも、短期的に暴力による恐怖で強制移動させる方が高効率だってことは、
 多分、管理局の人たちだって感付いていたと思うの。
 でも同時に、強攻策を実行に移してもしその事実が露呈した時に、
 どれだけ非難を浴びることになるかについても想像していたはずよ」

156 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/26(月) 20:26:45.81 ID:Nufx7+zt0
「アヤがサファリにいた理由としては、
 アヤを抱えてる組織のお偉いさんの命令、ってのが一番考えるにしちゃ楽だ。
 でも、そうすると避けられない繋がりが一つ出てくるよな」

発言が途切れる。
そこには暗黙の了解があった。
――アヤの組織とサファリ管理局は、秘密裏に繋がっている。
ややあってカエデは顔を上げ、

「サファリ管理局は工事の早期完了を望んでいた。
 しかし強制的な野生ポケモンの排除はリスクが高い。
 そこで外部から有能なポケモントレーナーを派遣させて、その作業に当たらせた。
 万が一発覚したとしても、サファリ管理局は管理責任を問われはするものの、
 サファリパーク内で起きたことについては知らぬ存ぜずを貫きとおせる。
 筋書きとしてはこんな感じかしらね」

とスラスラと推理を述べた。

162 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/26(月) 20:59:11.28 ID:Nufx7+zt0
リュウジは不安そうな表情になって言った。

「た、確かにその話には筋が通っています。
 でも、仮にもサファリパークを管理しているのは"国"なんですよ?
 個人単位ならともかく、国営機関に内通している組織なんて、ホントに実在してるんでしょうか。
 それにもし実在していたとしても、今までにそんな大それた組織の情報が、
 ほんの少しでも出回らなかったのはどうしてなのかな」

あたしはウツギ博士の言葉の片鱗を思い出した。

――肥満した組織はその存在がそこかしこから露呈するものだ。自重に耐えきれなくなってね――

カエデもあたしと同じようで、その矛盾を解こうとウンウン唸っている。
小さな沈黙が降りる。しばらくしてタイチは言った。

「考えても分からねえことは保留にしとこうぜ。
 ヒナタ、アヤとの会話で印象に残ってることは何かないのか?」

これは直接アヤの組織に関係していないことかもしれないけど、と前置きしてからあたしは答えた。

「あたしがピカチュウの居場所を尋ねた時、
 アヤは予想通り何も教えてくれなかった。
 けど、その後でアヤは奇妙なことを口走ったの」
「奇妙なこと?」

瞼を閉じる。
そしてその裏に、アヤの澄んだソプラノが興奮に乱れていた時のことを思い浮かべる。

「――ピカチュウはあたしのものだって。
 あのピカチュウは元々、あなたのものじゃないって」

194 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/26(月) 23:10:19.89 ID:Nufx7+zt0
分かったアレだ、と茶化すようにタイチが言った。

「我儘だよ、我儘。
 アヤは雰囲気は大人びてる、っつーか冷たいけど、一応は子供だからな。
 ピカチュウの強さに惚れ込んで、欲しがっていたとしてもおかしくない。
 もしかしたらカントー発電所の一件以来、あのスーツ着たおっさんにピカチュウをくれるよう、せがんでるのかもしれないぜ」

はいはーい、とすかさずカエデが手を挙げる。

「あたしもタイチくんと同意見。
 ねえねえタイチくん、あたし前から思ってたんだけど、もしかしてももしかしなくても、あたしたち気が合うんじゃないかしら」
「いや、今のは冗談のつもりだったんだけど」

カエデが媚びるような笑顔のまま石化する。
それに気付かないように(多分本当に気付いていない)タイチは続けた。

「アヤはヒナタに諦めさせたかったんじゃないかな。
 アヤは多分、ヒナタの親父が誰であるか知ってる。そしてその関係で、ピカチュウがヒナタの手に渡ったことも知ってる。
 アヤはピカチュウが自分を新たな主として認めたと嘘をつくことで、ヒナタのピカチュウを追う気持ちを削ごうとしたんだよ」
「そう……なのかしら……」

考えるだけ無駄なことなのかもしれない。
ただ単純な、アヤの独占欲の発露だったのかもしれない。
でも――それでも糸屑のような違和感が心にまとわりついている。
ピカチュウはあなたなんかよりも、わたしにこそ相応しい。
ピカチュウがあなたに付き従っていたのは義務の延長に過ぎない。
アヤが本当にそう言いたかったのなら、もっと冷ややかな皮肉として投げかけてきていたと思う。
あんなに感情を露わにする必要なんて、どこにもなかった。

176 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします sage 投稿日:2009/01/26(月) 21:51:25.83 ID:Nufx7+zt0
「ヒナタさんはこれからどうするつもりなんですか」

というリュウジの声があたしを現実に引き戻してくれる。
返事をしたのはタイチだった。

「とりあえず今のところはエアームド待ちだ。
 アヤを乗せたオニドリルが降りた場所がどこになるかは予測できないが、
 その場所が組織に関係していることは100パー間違いない。
 エアームドが帰ってきたら、アヤと組織が引き払わないうちに急いでそこに向かわねーとな」

真剣な声音に心強さを感じる。
タイチがいなければあたしは全身に大火傷を負っていた。
タイチがいなければあたしはアヤの行方を追うことができなかった……。
なんだよ?とタイチが訝しげに見返してくる。
なんでもない、とあたしは裏返りそうな声で言い、目を逸らす。

「尾行が撒かれてる心配はないが、ちょっと遅いな――」

と、タイチが窓辺に寄ってブラインドを下げた、その時だった。
笛に思いきり息を吹き込んだような、それでいて不快さを感じない高音が響き渡る。

「やっと帰って来やがった」

191 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/26(月) 23:03:40.65 ID:Nufx7+zt0
―――――
―――
――

「はいヒナタ、受け取って」

カエデが下から、最小限に荷物を絞ったリュックを渡してくれる。
二人乗りでの長距離飛行を考えると、軽量化は詮無いことだった。

「滞りなく飛べれば、片道に半日もかからない。
 カエデ、一日だけだ。一日だけ、ここで待っててくれ」
「いいのよ、あたしのことは気にしないで。
 そりゃあ本音を言えばー、タイチくんに早く迎えにきて欲しいけどー、
 長い間空を飛んだら、タイチくんもエアームドも疲れるでしょ?
 あっちについたら遠慮なく休憩して。
 一日や二日くらい遅れても、あたしは全然構わないから」
「正直、そう言ってもらえると助かる。でも、なるべく早く迎えに来るようにするからさ」



198 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/26(月) 23:30:08.21 ID:Nufx7+zt0
「ありがとう」

と屈託のない笑顔を見せるカエデ。
あたしは訊いた。

「本当にあたしの後で良かったの?」

エアームドの積載量は大人二人が限度で、三人同時に乗ることは出来ない。
指示を出すタイチは固定として、あたしとカエデ、
どちらが先にエアームドに乗るのか、あたしたちは相談しなければならなかった。
結果的に相談はカエデの一方的な譲歩ですぐに終わってしまった。

「あんたの記憶力が薄弱だってこと、すっかり忘れてたわ。
 いい? アヤはあんたがギリギリのトコで掴んだ最後の手がかりなのよ。
 あたしが先に行って、タイチくんがあんたを迎えに行ってる間に色々起こったらどうするわけ?」

バカにした言い方の裏にあるカエデの優しさに気付いて、

「それじゃ、遠慮無く置いてくからね」
「ええ、そうしなさい」

タイチは風の具合を確かめるように空を見上げた。
青い絵の具を刷毛でさっと塗ったような秋晴れの空に、ちぎれ雲が転々と浮かんでいる。

「そろそろ行くか」

タイチの手がエアームドの首を撫でる。
鋭い音とともに、金属質の赤い羽が展開される。


201 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/26(月) 23:59:40.38 ID:Nufx7+zt0
リュウジは言った。

「もし向こうで父さんに偶然会うことがあったら、
 僕は大丈夫だって、伝えておいてもらえませんか」
「分かったわ」
「これでまた、お別れですね」
「寂しくなるわね。セキチクでの再会が嬉しかったぶん」
「僕もです」

とリュウジは顔を伏せ、すぐに顔を上げて、

「頑張ってください。
 僕はヒナタさんの力になれるほど強くないけど、いつも応援してます」
「リュウジ……」

突然、エアームドが大きく羽ばたく。
「ありがとう」の言葉が、風に掻き消される。
それでも唇の動きでリュウジには伝わったようだった。

「しっかり掴まってろよ。上昇する時は特に不安定なんだ」
「うんっ」

返事をした次の瞬間に、エアームドの羽が一際大きく羽ばたいて――。
あたしは空を飛んでいた。黄緑と茶色が織りなす秋の草原に、
小さくなったカエデとリュウジが大きく手を振っているのが見えた。
エアームドが"上昇"から"飛翔"へ飛び方を変える。
高空の冷気が容赦なくあたしを包み込む。あたしはタイチの背中に身を寄せた。
そして目を瞑り、山吹色がシンボルカラーの経済都市、ヤマブキシティに思いを馳せた。

第十七章 完


逆噴射J ◆lW31l/VtQc mirrorhenkan